ではこのような軍勢対軍勢の戦いというイメージを、我々が正しいものとして受け取ったならば、我々の信仰に対してどういう結果、効果があるでしょうか。一つは、霊的戦いという視点の中で、私たちのどんなに小さいと思えるような個人の祈りも、小さいものではないということです。私たちの主イエス・キリストのみ名によって祈る祈りは、天の軍勢対悪魔の軍勢、その戦いにくさびを打ち込むような主の武具、武器であるということです。私たち一人ひとりの祈りに、どれだけの大きな力があるかということを、みことばからしっかり受け取ることができます。

そして私たちの祈りの方向性も、その視点が変えられます。私たちの祈りが、現実的な解決のみに集中し、極端に言うならばご利益宗教的なものになってしまっているとしたら、軍勢対軍勢の戦いということを受け取る時に、私たちの視点が天に向けられます。祈りにおいて持つべき方向性は、私たちの祈りの結果として天で勝利がもたらされて、その天の勝利の結果がこの地上に引き下ろされるというものです。祈りはそのようなベクトルでなければなりません。

 

以上、見てきたように、私たちが霊的戦いとして持つべきイメージは、軍勢対軍勢の戦いであって、私たちの軍の最高司令は、「万軍の主」ご自身、そして私たちはその主に付き従う中にこの地上の歩みとともに本当により天の軍勢対軍勢の戦いに参加しているというイメージを持ちながら祈りをささげる中に実際のこの地上の勝利も望みながら、この信仰の歩みをして行く。これがクリスチャンの祈りであり、霊的戦いだということになります。

 

私たちが絶えず敵の面前で、さらに私たちの信仰を確かにして、みんなで祈る中に士気を高めて、不可能と思われるような領域、強大と思われるような敵に立ち向かっていく、そのために「ときの声」をあげ続けるということです。ときの声は、祈りであり、賛美であるという風に置き換えればいいと思います。敵の面前でこそ私たちはときの声を上げ続けて敵に挑んでいかなければなりません。

 

ここまでが以前、私が語らせていただいたもの、そして今日語らせていただく一連の大きなテーマの前提となるものです。

 

今日はさらに「ときの声」というキーワードの中での「勝ち鬨(かちどき)」というところに進んで、みことばを受け取りたいと思います。勝ち鬨は勝った側が勝ちを宣言するものです。それはどのような意味合い、機能をもっているでしょうか。何万対何万とか、何十万対何十万という単位の軍が戦う戦場は、広大なものです。ですから、戦況が戦場の隅々まですぐには伝わりません。一騎打ちや局地戦での勝敗など、重要な情報が戦場に素早く、正確に伝えられることは戦いにおいて重要な点でした。勝ち鬨により、勝者側は敗者側全軍に敗北を突きつけ、軍そのものを弱体化させる、士気を下げて戦意を喪失させることができます。そして、敗走する敵軍を追撃し、勝者はさらにその勝利を確かなものすることができます。これも旧約聖書の記述や、私たちの霊的戦いの側面でも同様です。そのことを見ていきたいと思います。

 

冒頭のみことばに戻ります、第一サムエル記十七章五十一節から続けて五十三節まで読みたいと思います。

 

『ダビデは走って行って、このペリシテ人の上にまたがり、彼の剣を奪って、さやから抜き、とどめを刺して首をはねた。ペリシテ人たちは、彼らの勇士が死んだのを見て逃げた。イスラエルとユダの人々は立ち上がり、ときの声をあげて、ペリシテ人をガテに至るまで、エクロンの門まで追った。それでペリシテ人は、シャアライムからガテとエクロンに至る途上で刺し殺されて倒れた。イスラエル人はペリシテ人追撃から引き返して、ペリシテ人の陣営を略奪した。』

 

ダビデとゴリアテの記事は、ここまでをひとまとまりとして、そのメッセージを受け取らなければならないものです。

これはダビデがゴリアテを石一つで打ち倒した、その記事の描写のすぐ後の節になります。ダビデは主が与えてくださった勝利に対して、すぐに自分も応答して走って行って、ゴリアテにとどめを刺して首をはねた。その後でときの声を上げてペリシテ人を追撃して、ペリシテ人の陣営を略奪したという結論です。

 

この箇所をこの訳のまま読むとそう見えないのですが、先程からみているように、これは軍対軍の戦いです。それを忘れてはいけません。少し訳を変えて読む必要があると思います。「ダビデはとどめを刺して首をはねた。」の後の「ペリシテ人たちは」という表現。これは場面、文脈から訳せば「ペリシテ軍は」と訳すべきです。そうでなければ正しい戦いのイメージを持つことができません。同じように見ていくと、彼らの勇士が死んだのを見てペリシテ軍が全部逃げた。「その軍に対してイスラエルとユダの軍は立ち上がり、ときの声を上げて、ペリシテ軍をガテに至るまで、エクロンの門まで追った。このときの声は文脈から「勝ち鬨」であるとわかります。それでペリシテ軍は、シャアライムからガテとエクロンに至る途上で刺し殺されて倒れた。イスラエル軍はペリシテ軍追撃から引き返して、ペリシテ軍の陣営を略奪した。」こう読めば私が今日語らせていただいていることの意味を分かっていただけるのではないかと思います。

私たちの戦いは何のためか。ここにおいてはダビデとゴリアテの戦いの結末が重要なのではなくて、その結果もたらされた、イスラエルがペリシテ軍の陣営を勝ち取ったという、その主の勝利が重要なわけです。結果イスラエル王国はダビデ・ソロモンの時代に至るまでに、ペリシテの陣営を大きく勝ち取り、繁栄を示しました。

 

十七章全体を、はじめから連続して頭に描写をイメージしながら読んでいただくと非常にいいと思います。十七章冒頭にこの通り書いてあります。「ペリシテ人は戦いのために軍隊を招集した」と。イスラエル側も陣営を敷いてエラの谷というのを挟んで見合っている。まさに軍対軍の布陣の様子ということですね。

 

 赤い丸がエラの谷です。

 

その中で、もうひとつの要素が出てきます。「一騎打ち」です。ペリシテ軍対イスラエル軍の戦いの中で、一騎打ちがなされる。それがダビデとゴリアテの戦いの記事です。

ゴリアテは三メートル弱もあるような大戦士、ペリシテ軍がより頼んでいた力の象徴でした。一騎打ちは、軍対軍の、何十万対何十万の戦いを、一対一で代弁するようなものです。これも歴史的に戦いのなかで用いられてきたものです。軍対軍の勝敗そのものを代弁するような重要なもので、このゴリアテとダビデの記事でもそのことが書かれています。

そして、軍に対する代表者の存在が大きければ大きいほど、その一騎打ちの戦いの結果が軍全体に与えるインパクトは、大きくなります。まさにペリシテ人は圧倒的な代表戦士ゴリアテを送って、余裕な構え。そして逆にイスラエルは恐れおののいて戦意を喪失していました。そのような中でダビデが主のみ名によってこの一騎打ちに臨むという局面です。

一騎打ちの結果、ダビデが勝ちました。それを全軍に知らしめるということが、ここでは非常に重要だということです。すぐにその敗戦を敵に対して突きつけて、軍全体の士気を下げて戦意を喪失させて敗走に導く。このことが、ときの声、勝ち鬨には非常に重要な機能として与えられています。

 

ダビデは主が与えてくださった勝利に対してすぐに自分も応答して走って行って、ゴリアテにとどめを刺して首をはねた。ときの声をあげ、ペリシテ全軍を追撃し、イスラエルはこの勝ちを地上の勝利として絶対的なものにしたわけです。

ダビデとゴリアテの記事は、単純に小さき弱き者が大巨人を撃ったという理解では不十分です。ダビデは、地上の力、武を頼りにしていたペリシテ軍とその代表戦士ゴリアテに対して、万軍の主のみ名によって立ち向かいました。結果、主が勝利を与えてくださいました。それぞれが何に信頼をおいていたかの違いが、そのまま勝敗の結果に繋がりました。この戦いは主の戦いであり、その勝利は主があたえたものです。その点が重要です。

 

軍対軍の戦い、そしてときの声、さらに勝ち鬨ということの重要性をみてきました。そしてさらに「敵にとどめを刺す」ということが我々クリスチャンの果たすべき大きな使命であるということを見ていきたいと思います。主の戦いにおいて、敵にとどめを刺すことは私たちに委ねられている部分でもある。そういうような結論を見て終わりにしていきたいと思います。

1サムエル17章五十節、

 

『一振りの剣もなかったが、このペリシテ人を打ち殺してしまった。』

 

これまで見てきたように、ダビデとゴリアテの戦いの描写は、途中まで、ただの武力や地上の力ではなく、主がなされたことであると強調される描写が続いています。

しかし、51節

『ダビデは走って行って、このペリシテ人の上にまたがり、彼の剣を奪って、さやから抜き、とどめを刺して首をはねた。ペリシテ人たちは、彼らの勇士が死んだのを見て逃げた。』

 

勝利は主の計画の中で主が与えてくださるもの。しかしひと度、この地上に主が働かれたならば、その勝利を宣言して勝ち鬨をあげ、敵にとどめを刺すことを、我々主の民がしていかなければならないという風に言えるのではないでしょうか。ダビデはその勝利に応答して、すかさずとどめを刺して首をはねに行っています。その結果、更なる主の軍の勝利が与えられている。このことを私たちはこのダビデとゴリアテの一連の記事から受け取らなければならないのではないかということです

 

私たちの戦い、霊的戦いについて旧約聖書の実際の戦闘の描写から学んできました。最後に、その戦いの大前提となるイエス様の十字架について見ていきたいと思います。イエス様の十字架の勝利が、私たちの戦いの何よりの根拠となるものです。十字架上でイエスさまが語られた7つの言葉があります。その中で「完了した」という言葉があります。

十字架の救いの完成というのは、今日見てきた視点で言えば、サタンとイエスさまの一騎打ちの最終決戦です。人類が罪に陥って以降、すぐさま約束されていたその救い、罪の贖い、悪魔への勝利が、二千年ほど前のこの地上の実際の歴史の中で事実として現されました。その一騎打ちのクライマックスの場面が十字架です。

ヨハネの福音書十九章三十節『イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した」と言われた。そして、頭をたれて、霊をお渡しになった。』

 

この「完了した」という言葉はどのように語られたものでしょうか。「ようやく終わった。疲れた。やれやれ。」という感じで呟いたか。そうでなはく、この言葉は、勝利の雄叫びであったという風に言われます。人類の最大の敵であるサタンとの最終決戦に、イエス様ご自身も、自分の力ではなく、父なる神に信頼し、従う中で主のみ名によって立ち向かいました。そして、それが成し遂げれた後「完了した」と叫びました。敵に対する完全な勝利を突きつける勝利の雄叫び、勝ち鬨ということです。

 

 

私たちは主の軍の兵として戦っています。何のためでしょうか。主の支配が天の軍勢と悪魔の軍勢の戦いの勝利の結果としてこの地上にも引き下ろされて、主の勝利がこの地上にも完全に現される時が早まるように、主の再臨の時が早められるためです。

主が事をなされるのであって、私たちは望みを持って祈り続けます。事をなしてくださるのは主ですけれども、ひとたび主が事を起こすならば、あるいはそれが私たちの目の前に見えてきているのならば、私たちがさらにその主の勝利を確信を持って、宣言し、敵に対してその勝利を突きつけ、私たち自身がさらにその弱っている敵に打って出て、敵にとどめを刺すような祈りをしなければなりません。これが私たちが持つべき霊的戦いの祈りではないかと、私自信にこの数ヶ月来、主が示してくださっています。

 

今、私たちは様々な苦しみの状況の中で、敵に差し込まれているというような戦いに見えるかもしれません。しかし、今一度、私たちが何のためにクリスチャンとしてこの教会に集っているのかということを一人ひとりが受け取った中で、私たちが主の軍の戦い、主の軍の兵として、戦いを主の勝利のために迷いなく続けていきたいなという風に思います。敵の面前でこそときの声を上げ、そしてひとたび主が勝利を現してくださったなら、その証しと共に、その勝利を宣言して、さらに敵にとどめを刺し、主の栄光が拡大していく、そのような歩みを私たち一人ひとりがしていきたいなという風に思います。みことばは以上です。お祈りをもって終わりにしたいと思います。