「天のみ座を賛美で満たそう!」

2021年10月31日(日)新城教会牧師 滝元開

ヨハネの黙示録5章11~13節

『また私は見た。私は、御座と生き物と長老たちとの回りに、多くの御使いたちの声を聞いた。その数は万の幾万倍、千の幾千倍であった。彼らは大声で言った。「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。」また私は、天と地と、地の下と、海の上のあらゆる造られたもの、およびその中にある生き物がこう言うのを聞いた。「御座にすわる方と、小羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように。」』

ハレルヤ!皆さんと共に神さまを賛美し、こうして一つとなって主を礼拝できる恵みを心から感謝します。先週から二部制が一部制に戻りました。一年半ぶりの出来事でした。二〇二〇年の四月の最初の礼拝は二部にもなっていなかったですね。インターネットだけでの礼拝が六月まで続き、皆さん忍耐の限りを尽くしていただいて、そして六月から二部制ということでその時も喜びがありました。画面越しではなくてこうしてお会いできることが本当に感謝でしたけれど、先週からこうして一部になって、ひとつとなって賛美して礼拝できる。この中に神さまの大きなご摂理、ご計画があることを信じて心から感謝しています。
神さまはこうして私たちをもう一度この場所に集めるということの中に大きな計画を持っておられると信じています。最近順先生が語ってくださいましたが、「教会」というのが、この日本の縮図であり、また世界の縮図であり、そして宇宙の縮図がこの場所であり、主の宮の中で主を賛美する。そして主の宮の中にはどなたがいらっしゃるかと言ったら、天の父なる神さまのみ座があり、そしてその傍らには屠られた子羊、主イエスさまがいらっしゃる。その中で私たち、心から賛美できることを本当に心から感謝します。
こうして皆さんと共に、上(二階席)も下(一階席)も一つになって、ここだけ(最前部)なぜか遠慮の塊みたいなコーナーがございますけど、そこを見ながら、天の軍勢がここに来てくれているなと思いつつ歌いましたが、皆さんと共に賛美できることを心から感謝しています。

先週の礼拝、とても恵まれました。主の癒しと奇跡、本当に神さまがしてくださったことということを、私たちもう一度心から感謝しなかったらいけないなと思います。礼拝の最後に皆さんで神さまのみ前に感謝の拍手をおささげした時に、その拍手が鳴り止まないほどに主のみ前に届いている姿を見た時に、本当に神さまが栄光を現してくださった。特に病との闘いという中での二年間の一つの区切りとして神さまが大きな祝福を与えてくださったなぁということをだれもが体験したような、そのような時であったのではないかなと思います。
こうして二部から一部になったわけですけれども、私たち、教会では毎週月曜日がお掃除の日なんですね。この会堂を掃除するのですが、それまではずっと皆さんご存知のように白いリボンが一列おきにありました。ですからすごく掃除もしにくかったのですが、それが取られて、掃除した時に私の印象として感じたのは、教会そのものが「はぁ」と深呼吸しているような、そんな感覚を覚えました。
 昨年の暮れ、十二月三十一日の礼拝の時の写真ですけども、これはリボンがかかっている状態ですね。皆さんもなかなか集まれない中でした。このリボンが取り除けられて、この教会そのものが、今までの束縛が取られて、「もう一度主を賛美するぞ!」という、なんかこの会堂もそのように思っているんじゃないかなと、そのようなことを感じた、そんな次第です。

聖書の中にこんなみことばがあります。詩篇九二篇四~五節、

『主よ。あなたは、あなたのなさったことで、私を喜ばせてくださいましたから、私は、あなたの御手のわざを、喜び歌います。主よ。あなたのみわざはなんと大きいことでしょう。あなたの御計らいは、いとも深いのです。』

主がなさったことで、私たちこうして神さまがくださった喜びの中にあります。そして『主よ。あなたのみわざはなんと大きいことでしょう。あなたの御計らいは、いとも深いのです。』本当に神さまのみ計らい、取り計らいというのは本当に深くて素晴らしいと思います。
皆さんそれぞれ聖書をお持ちだと思うのですが、私が今使っている聖書は、実は私の母が使っていた聖書です。その、ちょうどこの箇所をご覧ください。
 この所に、これほど筆圧の低い線はないのではないかみたいな、か細い線が引かれています。九節の辺の裏面には、私が書いた筆圧が表まで出ているんですけども、母の書いたのは「これ以上ないぞ」くらいな、「あなたのみわざは…いとも深いのです…。みはからいは、…いとも深いのです…。」と、か細い声まで聞こえてきそうな、そんな気持ちになったんですが、もっと感謝するようにと母も言っているかのような気持ちになりました。ただただ神さまがここまで私たちを導いてくださって、この新城教会も二年前の戦いが始まって、はっきり申し上げて本当に皆さんそうだったと思いますけど、すごく暗い気持ちになって、本当にどうなるのかなと、本気で思っていました。
この先見えないなぁと思っていたんですけれども、先週の約束のみことばの通りに、一歩一歩神さまは確実に導いてくださって大きな主の勝利のわざをなしてくださったことを覚えて本当に心から感謝しています。使徒の働きの働き十五章十六~十七節、

『この後、わたしは帰って来て、倒れたダビデの幕屋を建て直す。すなわち、廃墟と化した幕屋を建て直し、それを元どおりにする。それは、残った人々、すなわち、わたしの名で呼ばれる異邦人がみな、主を求めるようになるためである。』

「倒れたダビデ幕屋」と書かれています。ダビデの幕屋というのは、やはり神さまへの礼拝だと思います。これがいろんな領域で、新城教会が廃墟になっていたわけではないと思いますが、でもそのようになったところを主は建て直してくださって、元通りにしてくださることを信じています。
そしてさらにこの十七節に、『それは、残った人々、すなわち、わたしの名で呼ばれる異邦人がみな、主を求めるようになるためである。』と書かれています。もう一度私たちがここで、主への礼拝、心からの賛美、霊とまことを持っての礼拝をおささげする時に、主をまだ信じていない方々、異邦人と呼ばれるそのような方々が、主を求める、そのようなことを主はしてくださると心から信じて感謝します。
ですからいろんな領域が主のみ手の中で元通りになるという以上に、新しい扉を主が開いてくださることに期待していきたいと思います。

今週は久しぶりの賛美集会があります。約二年ぶりですね。実は「リバイバル賛美集会開催」ということで、以前は二十四時間とか、ぶっ通しの賛美集会をたくさんしていましたけども、ちょっとだけ慎ましやかに三時間ですけれども賛美がささげられます。今週の水曜日、祝日ですね。午後二時から五時まで、教育館で行われますので、ぜひ皆さんご参加いただければと思います。もう一度主のみ前に、私自身もそうですけども、廃墟と化してしまった領域をもう一度生かしていただいて、心から主への賛美をささげていく者になりたいなぁと心から思います。

そしてちょっと話は変わるんですけど、春先にこの教会の教会員である授産所の愛する兄弟姉妹の所に訪問させていただき、その報告を以前の礼拝でさせていただきました。そしてその後もずっと緊急事態宣言だなんだかんだという中で、なかなか伺うことができなかったのですが、実は先々週、また彼らの所に行くことができて本当に感謝でした。ちょっと彼らの顔をご覧いただきたいと思います。
 これがT君です。本当にニコニコで来てくれました。彼の賜物は笑いなんですね。ハハハハ!と笑ってくださって、「T兄が教会で笑ってくれることを本当に願っている」という、そんな思いを持って彼と交わりました。彼ら一人ひとりといろんなお話ができました。
次に来てくれたのがNさんです。彼女も来るなり、わーっ!と手を振りながら入ってきてくれて、とても喜びでした。

 そしてその次に来てくれたのがHくん。こんないい顔をしてくれて、実はこの場所は授産所の、私たちは外にいるんですね。窓越しにお会いするんですけど、ちょうど車でこの場所に着いたら、外から一人の方が歩いて来ました。誰かなと思ったらHくんでした。彼はその施設内の工場で働きながら頑張ってくれているんですけども、こんなにいい顔をしてくれていました。

最後がJさんですね。それぞれがとても喜んでくださって、皆が一様に言っていたのは、「教会の皆はお元気ですか。」と言っていました。そして彼ら本当に祈ってくださっているんですね。「祈ってるから。順先生大丈夫?享子さん大丈夫?寛太くん大丈夫?」本当にそのことを忘れずに言っていて、「それじゃぁみんなが祈ってほしいことは何?」と聞くと、「また教会に行くことができるように。」もう二年以上ですよ、彼ら、ここに来ることができなくて、本当に苦しみの中で耐えて祈り続けているのですが、でも彼らが一生懸命祈ってくれている姿を見て、私たち、本当に心が温かくなりました。
Hくんは他の三人以上に施設内を歩くことができるのですが、Hくんの祈ってほしいことはやっぱり自由がほしいと、そう言っていました。施設の中だけでひたすら耐えて祈っている彼らのために、覚えて祈ってください。また彼らも本当に私たち一人ひとりのために、この教会が守られるようにと一生懸命祈ってくれています。新城教会の宝だなぁと思って帰ってきました。申命記の中に、十四章二節、

『あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。主は、地の面のすべての国々の民のうちから、あなたを選んでご自分の宝の民とされた。』

こんなみことばがありますけど、本当に彼らこそ宝だなぁと、すごく心温かくなった、そんな瞬間でした。誰からの称賛を受けるわけでもなく、じっと耐えて主を見上げて賛美しておられる彼らのためにも、ぜひ引き続き覚えて祈っていただきたいと思います。

こんな一つ一つの歩みの中で、私たちはやっぱり感謝を忘れてはならないと思います。やっと自由になった!と言って、巷は「これで自由にいろんなことができる!」と、それぞれのやりたいことをするわけですけれども、私たちは自由になった祝福と共に、さらに戦っていくと同時に、心からの感謝を忘れてはならないと思います。

イエスさまがハンセン病を治された記事が書かれています。十人の方が癒されました。不治の病と言われるその病が本当に苦しくて、「助けてくれ!」と叫んだその叫び声をイエスさまは聞き遂げて、その十人を癒されました。そしてその後、どうなったかと言うと、ルカの福音書十七章十六~十八節、

『イエスの足もとにひれ伏して感謝した。彼はサマリヤ人であった。そこでイエスは言われた。「十人きよめられたのではないか。九人はどこにいるのか。神をあがめるために戻って来た者は、この外国人のほかには、だれもいないのか。」』

とイエスさまはおっしゃいました。十人癒されたのに、感謝に来たのはたった一人だった。私たちがその九名になることがないように、ここまでの恵みを心から主に感謝していきたいと思います。

二〇一五年九月一日に父が天に帰りました。そして二〇一六年に母が天に帰ったのですが、以前もここで少しお証ししたことがあるのですが、父がザワメキの賛美をすごく愛してくれて歌っている中で、今日も礼拝の最初に歌った曲「勝利・感謝・主に栄光」、あの歌を歌った時に、「この歌は天国に行ってから歌う歌だ」と言い切っていました。「いや、そうじゃない。一つ一つの戦いを終えて、その戦いを終えたと同時に主に栄光をお返しして、また新たな戦いに進む歌だよ。」と、私は言ったんですけども、「いや、違う。これは天に行ってからだ。」と、父は聞こうとしなかったんですけども、父が天に帰って一年も経たない二〇一六年の六月のことだったんですけども、ブラジルから一つの映像が届きました。それは「勝利・感謝・主に栄光」をオーケストラで、しかも日本語で歌ってくれているというものでした。感動でした。なんだか、父からの天からのしるし、「ほらな」と言われたような、そんな気持ちでした。
時は流れ今年の八月の末の朝の土曜日の早天祈祷会の時でした。私はそのことをふっと思い出しました。そういえば、私たちに感動の映像を送ってくださった、あのブラジル人の先生お元気かなと思って、メッセージを送りました。「お元気ですか?」と日本語で送るとすぐに返って来ました。「元気ですよ。あなたは元気ですか?」と言われて、「はい、守られています。」とお送りしました。
すると次の日すぐに、またメッセージが来て、一つのYouTubeのURLが届きました。それはどういったURLだったかと言うと、「勝利・感謝・主に栄光」をピアノとバイオリンとチェロみたいな、四人ぐらいで弾いてくれているのです。マスクをしたまま。だから、「いや~歌い続けてくださっているんだ。」と思いました。そうしたら、次の日の礼拝が二十九日なのですが、なんと次の日に「勝利・感謝・主に栄光」をまたその教会で歌ってくださっていたらしくて、その映像が届きました。十月二日のザワメキのワーシップシャウトでご紹介したのですが、ご覧になっていない方もいらっしゃるかと思うので、七分少しございますけど、ご覧いただいて、神さまからの励ましをもう一度皆さんで、この教会として受け取っていただければと思います。その先生のご挨拶から始まります。よろしくお願いします。


<勝利・感謝・主に栄光ビデオ>

アーメン。感謝します。もう一度、主に拍手の賛美を!本当に主に心からの感謝を、私たちは忘れることなく戦い続けていく者でありたいと心から願います。このように日本のこの地球の裏側から、また再び、こうして、このタイミングでこのように私たちに励ましのメッセージを届けてくださった主に心から感謝します。「歌い続けてください」とこの先生も言っておられました。私たち信じて、主への賛美をささげ続けていく者でありたいと心から願います。

今日のメッセージのタイトルは「天のみ座を賛美で満たそう!」というタイトルをつけさせていただきました。天のみ座、神さまご自身のみ座が、神さまの賛美で満ちる場所、満ちていますけど、さらに満たすそんな者でありたいと心から願います。しかも今、今日こうして皆さんと共に、この新城教会の会堂に集まっていただき、またインターネットを通して同じこの空間の中で主への賛美をささげています。そこに主のご臨在があると私たちは言いますし、また「神の国がここに訪れる」と私たちはよく言いますけども、神のみ国というのはどこにあるか。
そんな質問をパリサイ人がイエスさまに聞いたことがあるんですね。「神の国はどこにあるんだ。」彼らとしたら、「いつローマ帝国の重圧から解放されるんだ。」とイエスさまに「どのスケジュールでいつ頃に来るのかな。」という、そういう人間的な質問だったように思うのですが、しかしイエスさまはそれに対して、彼らに何と言ったかと言うと、ルカの福音書十七章二十一節に、

『『そら、ここにある』とか、『あそこにある』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」』

とイエスさまはおっしゃいました。神の国はどこにあるか。私たちのただ中。ただ中というのは、私たちの心の中でもありますけども、新共同訳聖書にはこのように書かれています。

『神の国はあなたがたの間にあるのだ。』

と、そのように書かれております。ですから私たちはこの「間」というのは、つまり信じるクリスチャン同士の関係性の中にあったり、そしてまたその集まり。だから集まるということはすごく大きなことで、この集まるこのただ中に神の国が来るのです。
ですから私たち今日もこうして賛美しているという中に、すでに神の国があるんですね。そして、そこにおられる方はどなたかと言うと、天の父なる神さまと、その右の座に座される子羊主イエスさまなんですね。

私たち、黙示録を見ると、そのことが深く書かれています。先日のセミナーの中でも学びの時を待たせていただきましたが、今日の主題のみことばがその黙示録のみことばでした。少し読みしたいと思います。ヨハネの黙示録五章十一~十二節、

『また私は見た。私は、御座と生き物と長老たちとの回りに、多くの御使いたちの声を聞いた。その数は万の幾万倍、千の幾千倍であった。彼らは大声で言った。「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。」』

み座のみ前に、そこに四つの生き物、ケルビムと言われる四つの生き物。そして二十四人の長老たちと、そして贖われた数え切れない人たちと、万の幾万倍、千の幾万倍の天の大軍勢がいて、そして主を賛美していたという、この場景あたかも遠い所の天の彼方のお話のようですけど、それが今このただ中にあるということは、私たちのこの賛美を受け取ってくださっておられるお方のみ前で賛美しているという、そんな思いで賛美しなかったらいけないなということを、最近強く感じています。
父なる神さまのみ前に私たちが礼拝をささげるということは、ここにおられるその聖なる聖なる聖なるお方、イザヤも神さまを見ました。でもその時は「聖なる聖なる聖なるお方」という、その主の栄光を見て、「もう私はダメだ!」とイザヤは言ったんですけど、その時に見たものは、神さまの栄光の衣の裾だったんですよ。裾だけ見て、もう駄目だ!と言ったのですが、この黙示録ではヨハネが見た時は、もうその現実を目の当たりにしているんですね。そしてその天の大群衆の賛美がそこでささげられていました。
私たちが毎日おささげするこの礼拝というのが、その天の大群衆の中での賛美の礼拝だと、そんな思いで賛美をしていく必要があるのではないかなと思います。私たち、ある意味本当に聖なるお方、そして天の父なるお方、そしてその隣には屠られた屠られた子羊イエスさま、屠られたということは私たちのために命をささげてくださって、でも屠られて惨たらしくなったイエスさまではなくて、よみがえられた勝利のイエスさまご自身がそこで立っておられる、そのみ前で神さまに礼拝をささげていると、そんな思いで賛美をささげていかなかったらいけないなと、本当にそのようにすごく強く感じるものであります。

さらに黙示録五章十三節もお読みします。

『また私は、天と地と、地の下と、海の上のあらゆる造られたもの、およびその中にある生き物がこう言うのを聞いた。「御座にすわる方と、小羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように。」』

ここでは全被造物も共に歌っていると書かれています。パウロも言っています。ピリピ人への手紙の中で、二章十~十一節、

『それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。』

パウロも言っていますが、私たち一人ひとりが、その天の大群衆での賛美と共に、ここで賛美をする。そしてそれと共にすべての被造物、命ある天にあるものも、地にあるすべてのものも主を賛美して、よみがえってくださったイエス・キリストは主である!と賛美するという、その終わりの時代の賛美を私たち、ささげ続けていく者でありたいと、心から願います。

いろんな時代に、それぞれの賛美がささげられてきましたが、最高の賛美、そして最高のささげものを私たちはささげなかったらいけないんですね。最初の人アダムとエバ、そしてその子どもがカインとアベルでした。カインとアベルは神さまの前に礼拝のためにささげ物をしました。カインは自分の穀物を持ってきて、そしてアベルは自分の羊、その中でも最も貴重な羊を主のみもとに持ってきて、そしておささげしました。創世記四章三~五節、