「大逆転・大勝利・復活!!」

2021年4月4日(日)新城教会主任牧師 滝元順

第一コリント15章3節〜5節

『私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと、また、ケパに現れ、それから十二弟子に現れたことです。』

皆さん、おはようございます。ハレルヤ!今日は「主の復活記念礼拝」です。心から感謝します。本日は、全世界で主の復活が祝われています。残念ながら復活祭は、毎年、日程が変わります。昨年は四月十二日でしたか。キリスト教会にとって、最も大切なお祝いの日ですけれど、十二月二十五日に固定されているクリスマスとは違い、あまり意識されない現実もあります。
どうしてかと言いますと、歴史上キリスト教を最も迫害した「ローマ帝国」との関わりがあります。ローマ帝国は教会を迫害しましたけれど、キリスト教は爆発的に広がり、ついには四世紀、ローマはキリスト教を国教としたのです。当時、ローマは暦として、太陽暦(ユリウス暦)を採用していました。なぜなら、そこには太陽を礼拝する「ミトラ教」の人たちが多く住んでいて、彼らは惑星暦の「日曜日」に、ミトラを真剣に礼拝していました。しかしキリスト教徒たちは、当時、太陰暦によるユダヤ暦の安息日を礼拝日としていました。当時のローマの二大宗教の礼拝日がそれぞれ違えば、国は二分されてしまいます。同時に、皇帝自身はクリスチャンになったふりをしていましたが、実際は、ローマ神話の太陽神を礼拝し、自らも神であるとしていました。そのような背景と共に、紀元321年、ローマ皇帝コンスタンティヌス一世は、日曜日を国民の休日と制定したのです。そして諸宗教は、日曜日に礼拝を行うようにせよという、「サンデー・ロー」を発布しました。

その結果、キリスト教会も惑星暦の太陽の日「日曜日」に礼拝日を変更しなければならなくなったのです。礼拝には「日曜日」にしか集まることが出来なくなったのです。それで教会は集まって、主の復活の日をいつにしようかと議論しました。それが三二五年に開催された「ニケア公会議」です。
その結果、復活祭は、「春分の日以降の、最初の満月から数えて、最初の日曜日」と決められたのです。

今年の春分の日は、三月二十日でした。その後の満月は、先週の月曜日でした。

となりますと、今年の復活祭は「四月四日、日曜日」となるわけです。イエスさまは「ニサンの月十四日」に十字架につかれ、「ニサンの月十六日」に復活されました。ニサンの月の十六日は、「初穂の祭り」の日で、「満月」でした。イエスさまはその日を選んで、よみがえられたのです。本来、教会はニサンの月十六日(ユダヤ暦)を復活祭としたいところですが、ローマ帝国はそれを禁止しましたから、主の復活日に最も近い日曜日を復活祭として設定したわけです。
教会はローマ帝国によって、イエスさまの誕生日も、十二月二十五日という、太陽礼拝の日に変更されましたし、復活の日も奪われました。私たちは、悪魔に奪われたカレンダーを取り戻し、主の復活を祝わなければなりません。

イエスさまの復活は、歴史的事実です。当時のイスラエルは、大帝国ローマの植民地として強力な管理下に置かれていました。十字架と復活は、その中で起こった事件でした。歴史を調べるなら、それは誰も否定できない事実なのです。主イエスが本当によみがえられたのなら、キリスト教ほど素晴らしいものはありません。しかしもしも、これが誤りで偽りであったり、神話ならば、そんな信仰は捨てた方がいいのです。パウロはコリント人への手紙第一、十五章十四節で次のように語っています。

『そして、キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。』

イエスさまはユダヤの祭日「初穂の祭り」の日によみがえられました。ということは、次に続くよみがえりがある事を意味しています。主が帰って来られる日、私たちもよみがえることができるのです。

人生は、あっという間に過ぎていきます。最近、そんな話ばかりしていますけれど、ここには若い方からお年寄りまでおられます。私は今年で七十才です。この年まで、あっという間でした。八十過ぎの方々も、あっという間であったに違いありません。人生は一夜の夢のようです。若い方々はそんなことはない、と思っているかもしれませんが、楽しみにしていてください。きっとそう感じる日が来ますから。

先週、家内と近くのドラッグストアに行きました。支払いをしようとしていたら、後ろから「あっ!変なおじちゃんがいる。」という声を聞きました。振り返えると、一人の幼稚園ぐらいの男の子が立っていました。すると、その子のお母さんが、「何言うの!」と言って、あわてていました。しかし男の子は、近くの商品を指さして言っていたのです。それは商品に描かれていた「変なおじちゃん」の絵を指さしていたのです。しかしお母さんは、どうも私が変なおじちゃんと感じたみたいです。すると家内が、「この人、変なおじちゃんだよ。」とか言って、フォローしていました。しばらく気まずい雰囲気がレジ付近に漂いました。私は「変なおじちゃんになっちゃったんだ・・」と改めて認識しました。人生って寂しいもんですね・・・。あっという間に過ぎて、変なおじちゃんになり、次は、死んでしまいます。

日本人は真面目に歩む人が多いです。一生懸命働きます。しかし死後の世界のことになると、突然、曖昧になります。生きることが現実ならば、死後の世界だって現実なはずです。人生を考えるならば、本来、死後どうなるのかについて、はっきりしないといけないはずです。最初に何が事実なのかを、真剣に考えなければならないはずです。
先日インターネットに、あるアメリカ人富豪が死後の世界を証明した人に、一億円あげると発表したと言うニュースが載っていました。それで、死後の世界を証明する論文の提出を待っていると言うのです。私の語っているメッセージも送ろうかなとも思うのですが、彼は金はたくさん儲けたのですが、最愛の妻と息子を失ったというのです。それで、「死後の世界ってあるのだろうか・・・。妻や息子に会うことができたら・・。」と真剣に考えるようになり、死後の世界を証明してほしいのです。

日本人に生まれたら、死後の世界は、三つの中から一つを選ぶようなものです。または、三つをミックスした、曖昧に死後の世界観の中に生きていたのではないでしょうか。
一番目は、「死んだら全てが終わる」。
二番目は「輪廻転生して生まれ変わる」。
日本人のほとんどは、仏教徒だと言いますから、仏教徒は二番目限定です。仏教の方はよく覚えておいてくださいね。
三番目は、「先祖の霊に加わり、憑依する」という考えです。これは儒教的な考えです。

「さぁ、この中から、どれか一つを選んでください。」と言われたら、あなたならどれを選択しますか?

一番目、「全てが終わる」というのは、なんとも寂しいですね。それを選んだ瞬間、全てが消滅するという事です。世界、宇宙のどこを探しても、あなたの片鱗さえ見つけることができないのです。悲しいです。今までの努力は、何一つ報われないことになります。
実は、この考えの背景に「進化論」が関わっています。日本人は進化論教育を受けていますから、このような考え方をする人たちも多くいます。

そして二番目、仏教徒の方は二番目を選択していることになります。「輪廻転生して、生まれ変われる」・・・この選択は、案外いいのかもしれません。死んでも再び、地上に戻って来られるのですから。仏教徒が「四十九日」を行うのは、輪廻を受け入れ、信じている証拠になります。インドとかネパールに行きますと、皆、これを信じています、だから墓を作りませんし、先祖の霊は存在しないと考えます。なぜなら、皆、リサイクルされるからです。
しかしどのように輪廻するのか詳しく知っていますか。それは六道・六界と言いまして、六つの世界を循環しながら戻ってくるという思想です。死後にどの世界に最初輪廻するのかは、閻魔大王次第だそうです。自分では選択できません。
では、この六つの世界を見てみましょう。まずは第一界、六道の中で最も苦しい「地獄界」です。輪廻だと、誰しも一度はここに輪廻しなけれなりません。
そして二番目は、飢えによる苦しみを味わう「飢餓界」です。宴会を目の前にして、自分だけは食べられない苦しみが一生続く世界です。先日話した韓国の特殊部隊の訓練みたいな世界が死ぬまで続くのです。
そして三番目は「畜生界」です。犬とか猫と同じ世界に生まれ変わるそうです。愛犬にも会えるかも知れませんね。でも、犬や猫だけでなく、ゴキブリにもなりえるそうです。ゴキブリも元は人だったのでしょうか?
そして四番目は、「争いだらけの修羅界」です。修羅場とよく言いますが、二十四時間、争いしか存在しない世界に生まれ変わるというのです。仏教徒ならば、輪廻は避けられません。
そして次は、苦しみと悲しみの「人間界」です。人間の世界に戻っても、つらいですよね。
でも、楽しみが多い「天上界」があります。しかし、その世界にも、やはり苦しみはあるそうです。やっと天上界に来られた!と思ったら、またもや地獄界に転落です。このサイクルを、永遠にぐるぐると回るのが輪廻転生です。ここから離れることを「解脱」と言うらしいですが、本来の仏教では、浄土宗が言うような簡単なものではありません。
どうでしょうか。輪廻転生も選ぶのは、躊躇しますよね。

そして三番目は、「先祖の霊に加わり、憑依する」という選択です。死んでしばらくはいい感じです。地上の親族から供養されて、大事にしてもらえそうです。しかしだんだん時間が経つと、供養してくれなくなり、先祖の霊は夜叉となり、地上の家族や親族を苦しめる霊になります。生きている子孫にとっては、恐ろしい存在です。盆が来て、年間一度は家に帰る事が出来ても、キュウリとかナスで、川に放り込まれ地獄に戻ります。
私たち日本人の持っている死後のオプションは、あまりにも悲惨です。

しかし今日は、もう一つ、選択オプションを付け加えます。それは聖書の教える死後の世界です。この三つの道とは完全に異なる、一つの道を示しています。それはイエスさまが語られた、『わたしは道であり、真理であり、いのちです。』という道です。それは死後、「永遠のいのちの中で、家族とともに幸せに、永遠に生きる」と言う選択です。
主イエスを救い主として信じる時、先に天に帰った人たちと一緒に、死も苦しみも悲しみもない場所で、永遠に過ごすのです。聖書は、そんな世界があると教えています。
ということは、三つの内一つの選択を迫られても、もう一つの異なる道があるのです。そんな道があったら、だれでも、絶対に選択するはずです。

クリスチャンは、どうしてここまで自信を持って話すことができるのかと言うと、主イエスが死を打ち破り「復活された」という事実があるからです。イエスさまは三日目によみがえられた方です。釈迦も、孔子も、マホメットも、死んでそのままです。しかしイエスさまだけが、死を打ち破り、三日目によみがえられたのです。それも、「初穂として」復活されたのです。ということは、イエスの復活に続く人たちがいる事を意味します。
すべての人に、この道を選んで頂きたくて、教会は存在しています。

しかし多くの日本人は、「教会行くと、先祖さんを供養できなくなるんじゃないですか。それは先祖に対して申し訳ない…。」という気持ちがあります。
なぜ、日本人は先祖を拝むのでしょうか。究極的には、拝むと、何らかの霊的手応えを感じるからです。

ちょっと話は変わりますが、私はプエルトリコという島に、友達がいます。プエルトリコがどこにあるのか、皆さんご存知でしょうか。カリブ海に浮かぶ、小さな島です。

私は一度、行ったことがあります。私の友人はラフィと言います。
彼は今から十数年前、日本に留学していたそうです。日本のアニメが好きで留学したそうです。ホームステイ先は、岐阜県郡上八幡の旧家でした。彼は牧師の息子でクリスチャンでした。しかし彼が通された部屋は、偶像がいっぱいある、暗い部屋であったそうです。家には大きな仏壇があり、すごく気味が悪かったそうです。初めは日本語も分からず、たいへん苦労したそうです。朝、歯磨きチューブだと思って使ったら、おばさんの髪染めだったそうです。「めっちゃまずかった。」と言っていました。そりゃそうでしょうね。

ある晩のこと、なかなか寝付けなかったそうです。すると突然、金縛りにあい、目の前に老婆が現れ首を絞められたそうです。本当に身の毛もよだつ経験だったと言います。彼は真剣に祈ったそうです。
朝になって、仏間を通ったら、仏壇の上に掲げられている老婆の写真と同じだったそうです。
それから彼は病気になって、日本から逃げるようにプエルトリコに帰ったそうです。「日本には二度と行きたくない!」と思ったそうです。
そんなある日、プエルトリコの近くの教会に、日本で働いているプエルトリコ人宣教師夫妻が来て、宣教報告会があったそうです。彼は興味があって出席したそうです。そして、宣教師たちに自分の日本での体験を話したそうです。すると宣教師夫妻は、沖縄で働いている先生方で、そのような現象についてよく知っていました。「それは先祖の霊じゃなく、先祖のふりをした悪霊です。」と話してくれたそうです。
日本人は霊的に敏感で、霊感を感じるのですが、それらは決して先祖の霊ではないのです。人は死んだらどうなるのか。天地宇宙を造られた神の管理下に移されるのです。決して地上を浮遊したり、憑依するのではありきせん。人に取り憑くのは先祖の霊ではなく、先祖の死に関わった「死の霊」です。
すると宣教師がこう話したそうです。「日本に行く機会があったら、滝元順という牧師に会いなさい。彼がそのことについて詳しいから。」と勧めてくれたそうです。それで彼は、「滝元順」とメモっておいたそうです。でも二度と日本に行くことはないだろうと思っていたそうです。

それから月日が経って、彼は音楽好きで、プロのベーシストになりたくて、アメリカのボストンにバークリーという有名な音楽学校があるのですが、そこに入学することが決まったそうです。しかし入学の直前に、ニューヨーク同時多発テロが起こり、その学校に行くことができなくなったというのです。それで学校を変更して、ロサンゼルスにあるLAMAという音楽学校に入学することにしました。

テロのために彼は少し遅れて、ロサンゼルスにある音楽学校に入学しました。
学校の事務所に行ったら、「この学校に日本人男性が一人いて、あまり英語ができないから、あなたは日本語ができると聞いたので、ちょっと助けてやってくれないか。」と頼まれたというのです。
それで彼は日本人学生の所に行って話して、このような質問をしたそうです。「私は一人の日本人の名前を知っているけれど、君は知らないか?」という質問でした。
知らないかと言っても、日本人は一億何千万もいますから、それは無理でしょう。このように聞いたそうです。「君は滝元順っていう人を知ってるか?」
その質問を受けた日本人は目が点になりました。「えっ!滝元順?それって、俺の親父?!」
なんと、ラフィからその質問を受けた日本人男性とは、私の息子、堅志でした。信じられますか?本当に神さまは、すごいことをしますよね。
ラフィは、私に会いたいと思っていたのです。すると、アメリカ、ロサンゼルスの一般の音楽学校で、日本人に出会い、それが私の息子だったわけです。
それからラフィとの交わりが続いています。今から十年くらい前には、プエルトリコのラフィの教会に、フェルナンド先生と一緒に行き、奉仕したこともあります。
彼は日本で体験したことを、今でもたいへん印象深く覚えています。「あれは先祖じゃない!先祖のふりをした悪霊だ。日本人の皆さん、気をつけてください!」と伝えたいのです。
彼は今、プエルトリコで牧師になりました。先日、彼が短いスペイン語の賛美を歌って送って下さいました。奇跡の出会い、ラフィの歌う賛美をお聴き下さい。どうぞ!