「70年が満ちた2021 回復と再建の年 〜この時のために生きる② 大逆転、大勝利!〜」

2021年3月7日(日)新城教会主任牧師 滝元順

エレミヤ29章10節〜11節

『まことに、主はこう仰せられる。「バビロンに七十年の満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにわたしの幸いな約束を果たして、あなたがたをこの所に帰らせる。わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。‐‐主の御告げ‐‐それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。』

ヘブル人への手紙2章14節〜15節

『そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。』

ハレルヤ!今日もこうしてみ言葉を語らせて頂けます事を、心から感謝いたします。緊急事態宣言も緩和されて。少し心が自由になった感じがします。しかしまだまだこの状況、一年・二年は続くようなことも言われています。この時期を祈りつつ、過ごしていきたいと願います。

人生はあっという間に過ぎていきます。昨年は私たちの教会におきましては「宣教七十周年」という記念の年でした。それでエレミヤ書二十九章のみことばを、度々、引用させていただきました。また、教会の昔話などもよく話しました。私も今年の八月で七十歳になります。人生って早いなぁとつくづく思います。
滝元家の50数年前の写真がありまして、一度お見せしたかもしれませんが、誰が誰なのかわからないかもしれません。この日は二度と戻って来ません。私にも家族ができて、二人の子どもたちは結婚して、家族を持っています。昨年末に皆、集まりました。家族って、不思議なものだなと思います。
一番下の孫が私に、「じいじ、小さいころは頭に髪の毛はあったの?」と聞きました。「あったよ!」と答えました。人はどんどん姿が変わります。お若い皆さんもやがて変わりますから。しかし私たちには、いつまでも変わらない主が共におられます。主がどんな時も守ってくださいます。

「七十年が満ちる頃」とあります。聖書が基本としているカレンダーはユダヤ暦という暦です。その暦を理解しないと理解できないない箇所が多くあります。「第一の月」とか「第二の月」とか、旧約聖書にはいっぱい出てきます。調べてみれば百数十箇所にわたり出てきます。それらは私たちがふだん使っている暦とは全く違います。それは太陰暦を基本とした暦です。
暦には大きく分けて二つあり、私たちがふだん使っているのは、地球が太陽の周りを三百六十五日で一周する周期を元にした太陽暦です。もう一つ、月が地球を二十九・五日で一周する周期を元とする太陰暦があるのですが、聖書が使っている暦は太陰暦に属する、太陰・太陽暦です。
「バビロンに七十年が満ちる頃」とありますが、我々は太陽暦で物事を考えますから、「今年は二〇二〇年から二一年になったら、七十年が満ちた」と言うわけですが、聖書の告げる「七十年が満ちた」とは太陰暦ですから、聖書の暦ではいつなのかを調べなければなりません。
先々週も、そのことについて少しお話しさせていただきましたが、聖書の暦は「ニサンの月(第一の月)」から始まって「アダルの月(第十二の月)」で終わります。今日は太陽暦においては「三月七日」ですが、聖書の暦では「アダルの月二十三日」になります。

ということは、聖書歴では今日は年末にあたるわけです。「七十年が満ちる頃」と記されていますが、聖書がいう七十年が満ちる頃とは、今週が「七十年が満ちる週」になるわけです。
そして来週の日曜日は十四日ですが、これは「ニサンの月一日」にあたり、新年です。今週は年末、来週は新年です。「あけましておめでとうございます」となるわけです。

「新城教会に七十年が満ちました!」と言うのですが、聖書歴に照らすなら、今週で満ちるわけです。「七十年が満ちる頃、わたしはあなた方を顧みる」というみことばと対比させるなら、主が働いてくださる週として、位置づけることも可能ではないかと思うのです。
そして来週の日曜日からはニサンの月一日(第一の月一日)になるわけです。聖書暦における、年末・年始がこの三月に含まれています。

太陽暦、二〇一一年三月十一日は、私たちにとって忘れることができない悲しい記憶の日となりました。東日本に大震災が起こり、地震よりも津波で、二万人以上の方々が亡くなり、今もなお行方不明の方も多くおられます。人は突然起こる出来事におびえ、対応しなければなりません。
現在、全人類が戦っている新型コロナウイルスも、あっという間の出来事でした。私たちは神の子として、このような中にあっても、与えられた役割を果たしていく必要があります。

今日はアダルの月二十三日にあたりますが、聖書にはアダルの月に、まさしく大逆転・大勝利が訪れたストーリーが記録されています。ユダヤ民族が一人残らず一掃されるという危機が一転して、一日のうちで敵が一掃され、大逆転・大勝利が民族全体に訪れたからです。それがアダルの月の十三日でした。
私もこのアダルの月の大逆転・大勝利、そして新年にかけて起こる大逆転・大勝利に期待しています。私と家族は、今もなお戦いのただ中にありますから、天の暦を地の暦とさせていただきたいと願っています。

少し復習になりますが、アダルの月に起こった出来事について学びましょう。今年は二月の二十五、二十六、二十七日がプリムの祭でした。それはエステルによって、ユダヤ民族全体が勝利した事を記念する祭りです。
かつてペルシャ帝国において、アダルの月の十三日、「一日の内に若い者も年寄りも子どもも女もすべてのユダヤ人を根絶やしにし、殺害し滅ぼし、彼らの家財をかすめ奪え」という恐ろしい法令が発布されました。それはハマンという、ペルシャの総理大臣のような人物が、策略とともにユダヤ人撲滅計画を練り上げたからです。これを日本民族に置き換えたら、どういうことになりますか。例えば四月十三日に、日本人全員を根絶やしにせよ!という国際法が発布されて、世界中の日本人が根絶やしにされる事になったら、どんな気持ちでしょうか。

しかしながら一日のうちに、その計画が大逆転して、計画を発案した首謀者ハマンが殺され、一族が一掃されたのです。
ハマンは、まずモルデカイを殺して、アダルの月の十三日には、すべてのユダヤ人を根絶やしにしようと計画しました。それでまず手始めに、モルデカイを殺そうとして十字架を立てました。しかしハマンはモルデカイのために用意した木、すなわち十字架に自分がつけられて、殺されてしまったという大逆転・大勝利が起こったのです。先々週、お話ししましたので、細かいことは語りませんが、それが決まったのがユダヤ暦、シワンの月(第三の月)でした。そして虐殺計画が実行されるのが「アダルの月」で十ヶ月くらい後のことでした。

このタイミングを見ますと、神さまは本当に愛なる方である事が分かります。神は、すべてのユダヤ人に配慮されていたことがわかります。
エステル記九章十七〜十九節、

『これは、アダルの月の十三日のことであって、その十四日には彼らは休んで、その日を祝宴と喜びの日とした。しかし、シュシャンにいるユダヤ人は、その十三日にも十四日にも集まり、その十五日に休んで、その日を祝宴と喜びの日とした。それゆえ、城壁のない町々に住むいなかのユダヤ人は、アダルの月の十四日を喜びと祝宴の日、つまり祝日とし、互いにごちそうを贈りかわす日とした。』

この箇所をただ読むと、あぁそうか・・、みたいに終わってしまうのですが、シュシャンに住んでいたユダヤ人たちは、「アダルの月の十三日・十四日・十五日」にお祝いをしました。しかし田舎に住んでいるユダヤ人たちは、「十四日」を喜びと祝宴の日にしたわけです。日本に置き換えたら、東京に住んでいる人たちは十三・十四・十五日を休日としたけれど、田舎、新城に住んでいる田舎者は「十四日」となったわけです。
どうしてそんな格差があるのだろうか、と思います。しかしここに神さまの深い配慮があったことを伺えます。
ユダヤ人撲滅計画を廃止する法令が発布されたのは、「シワンの月の二十三日」でした。その新しい法令が、「アダルの月十二日の日没」までに、ペルシャの隅々にまで伝えられれば、ペルシャ全域に住むユダヤ人たちは助かります。しかしもしも一部の地域に新しい法令が届かなければ、十三日は古い法令によって、虐殺計画は実行されてしまったはずです。
ペルシャ帝国は、百二十七州もあり、広大な領土でした。当時はFAXがあったわけでもなく、電話もネットもありませんでした。王が、シワンの月の二十三日に、ハマンによって立案された法令を取り消す法令にサインしたとしても、すでにアダルの月の十三日にユダヤ民族全員を虐殺せよ!という法令は発布されていました。いくら取り消す法律を作っても、新しい法令を田舎まで届けるには、相当な日時がかかったと思われます。
もしも虐殺計画がアダルの月ではなく、もっと手前に決まっていたならば時間がなかったはずです。取り消されても、首都、シュシャン近隣の人たちは助かったと思われますが、田舎に住んでいたユダヤ人たちにまで、新しい法令は届かなかったはずです。当時は、王様が文書にサインをし、それを書き写して、王の印鑑を押して、飛脚が地の果てにまで文書を届けました。ペルシャは、東はインダス川、西はアフリカまで及んでいました。
最も遠くに住んでいたユダヤ人たちには、この新しい法令は、アダルの月の十二日の日没寸前に届いたのです。十三日に皆殺しは決まっていましたから、ペルシャの兵士たちにより、田舎のユダヤ人たちは、アウシュビッツのように集められて、まさに剣が頭上に振り下ろされる寸前だったかもしれません。しかし十二日の日没寸前に、王からの新しい法令が届いたわけです。そこには「十三日に計画されている虐殺計画を中止せよ」と記されていたのです。田舎のユダヤ人たちは、すでに覚悟を決めていたはずです。
しかし、十三日になって、ちょっと雰囲気がおかしいぞ!殺される日なのに、兵士たちは動かないし、何が起こったのだろうか?ユダヤ人たちは事情が分からず、十三日は一日中、緊張してドキドキもんだったと思われます。
やがて、彼らに信じられない知らせが届いたのです。「シュシャンのお城から撲滅計画を中止せよという文書が届いた!その計画を立案したハマンとその一族が木にかけられて殺された!ユダヤ民族はエステルによって助かった!」と知ったのです。
ゆえに、十四日は大喜び、大宴会となったのでしょう。田舎に住むユダヤ人たちにとっては、アダルの月の十四日が大逆転の日となったのです。
しかしシュシャンに住むユダヤ人たちは、事前に知っていましたから、「十三・十四・十五」と、余裕をもってお祝いしたのでしょう。ここから見ても、神さまの配慮を見ることができます。また、すべてのタイミングに神は関わっておられるという事です。

アダルの月の十三日、敵がユダヤ人を征服しようと望んでいたのに、それが一変して、ユダヤ人が自分たちを憎む者たちを征服することになったのです。大逆転・大勝利がアダルの月に起こったのです。

旧約聖書に出てくる事柄は、すべて新約聖書、それもイエスさまに関わる影となっています。エステルの物語は、何を指し示しているのでしょうか。それは「主イエスの十字架の大逆転・大勝利」に結びついているのです。
ハマンが建てた十字架にハマン自らがかけられたテーマが、イエスさまの十字架に集約されています。史上最大の大逆転・大勝利はどこにあるのかと言ったら、主イエスの十字架の死と復活にあります。そのことをヘブル書の記者は、次のように述べています。
ヘブル人への手紙二章十四〜十五節、

『そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。』

アダルの月の十三日、一日のうちに大逆転が起きたのと同じように、イエスさまの十字架と復活によって、一日のうちに、全人類に、いや、全造物に、大逆転・大勝利が訪れたのです。

間もなく、「復活祭」です。復活祭はキリスト教会の中で、最も重要な日ですが、それにもかかわらず、クリスマスほど意識されていません。クリスマスは結構、盛り上がりますけれど、復活祭となると、「復活祭、いつだったっけ?」なんて、忘れる始末です。
何故かと言うと、そこには理由があるのです。復活祭の日程は、毎年、コロコロ変わるからです。今年は四月四日になります。
復活祭は、「春分の日以降の最初の満月から、数えて最初の日曜日」というのがキリスト教会の伝統です。だから今年は四月四日が復活祭になるのです。
しかしこれ、ちょっとおかしいと思いませんか?例えば、皆さんの誕生日が毎年変わったら嫌な気分ですよね。
私の誕生日は、八月五日ですが、「順さん、来年の誕生日は九月五日にしてもらうからね。」と言われたら、何それ?って感じです。さらには、自分の親が亡くなった日が、毎年、変わるなんていうのは受け入れられません。
イエスさまの十字架と復活の日も、三百六十五日の中で確かな一日のはずです。しかし変化するわけです。
クリスマスもイエスさまの誕生日ではありません。本当に教会は不思議なところです。イエスさまがお生まれになった日も間違っていますし、イエスさまが十字架につけられた日も、復活の日も毎年変わるからです。なぜでしょうか。「それが伝統ですよ」と言うかもしれません。しかしそこには理由があるのです。

実は復活祭の日程が定められたのは、AD三二五年の「ニケア公会議」によって決定されました。教会自ら、日程を決めたのです。でもなぜ、こんなややこしい日程に決めたのでしょうか。
歴史を調べると、そこには教会の深い苦悩が含まれていることがわかります。

実はAD三二一年の三月七日のことでした。ローマ皇帝のコンスタンティンが「太陽の日」、すなわち「日曜日」を西ローマ帝国の休息の日とする法律を施行しました。それは神やイエス・キリストを讃えるためではなく、太陽神を讃えるためでした。
世界中、ほとんどの地域で現在、日曜日は休みです。この起源は、AD三二一年のコンスタンティンの定めた「サンデーロー」という法律が起源です。「国民は日曜日に休め!」
なぜならばローマ帝国は、当時、アポロンという太陽神を拝んでいて、ローマ皇帝は太陽神の化身であると信じられていました。また当時ローマでは、ミトラ教という、太陽を拝む宗教に入っている人たちが多く、彼らは日曜日に太陽礼拝をしていたわけです。
そんな中、キリスト教がローマで国教化されました。当時、クリスチャンたちは安息日に、太陰暦に沿って礼拝をしていたわけです。また、イエスさまがよみがえられたのが、週の初めの日でしたから、安息日の翌日、その日を記念して礼拝していたようです。
ローマでは各宗教によって、礼拝日が異なっていたわけです。 そのまま放置すれば国は混乱します。ゆえに「全てを日曜日に集約せよ!各宗教の礼拝は日曜日に行え!」と命令されたのです。
以来、ローマ・カトリック教会はそれを受け入れて、日曜日を礼拝の日としたのです。それが今日、プロテスタント教会にも受け継がれているのです。
イエスさまが復活された日は、春分日以降の最初の満月の辺りだということは分かっていました。けれども、教会は聖書暦通りには主のよみがえりを記念できません。それで、「満月の後の最初の日曜日」としたのです。この結論に至るまでに、相当な論議があったわけです。