「70年の満ちた2021〜回復と再建の年〜あなたは主の栄光を現す樫の木です」

 

 

よく善悪を知る知識の木を、りんごの実なんかに例えていますけれど、聖書はそう言ってはいないのです。創世記三章六節、

 

『そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。』

 

エバは実よりも、木に魅力を感じたのです。「この木は素晴らしい!」と、木があまりにも美しかったものだから、それに惚れて、実を取って食べたということです。

その後、神さまが罪を犯した人の所に来られた時、人は何をしたのかというと、

 

『それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。』

 

「木」は複数ですから、木々の間に身を隠したわけです。

神は多くの被造物が造られましたが、被造物の中で人の堕落を目の前で見て、最もショックを受けたのは、他でもなく木々であったと思われます。人の犯した罪の巻き添えを食らった、最初の被造物、それは木々だということです。

それ以来、人はいのちの木の実を取って食べることができなくなり、放浪の旅を続けています。それが現代人の姿でもあるのです。

 

周りに多くの木々が茂っていますけれども、その中に宿っている命は、日本人は神霊が宿っていると考えますけれど、それは間違いで、天地宇宙を造られた「神が与えた命」です。神が与えた命。木々の命も、私たちの命も、『わたしが道であり、真理であり、命です。』と語られた神が与えられた命です。他の被造物も人の罪に深く傷つき、うめいています。その中でとりわけうめいているのが、木々かもしれません。

 

先週、私は新城のある所に行きました。多分、樹齢数百年の太い木がありました。

 

 

でもこの周りは墓場です。縄文時代から続くような墓場です。この木は数百年ぐらいに渡って、新城の血なまぐさい歴史を見てきたはずです。何かこの木がうめいているように感じました。私はこの木に手を置いて、神に罪を悔い改め、「木よ。主を賛美せよ!」と宣言してきました。

ある所の木の下には多くの偶像があって、木がねじれていました。日本人は木々を神として礼拝しています。それは木々を最も悲しませることです。

 

いのちの木を失った人類が、もう一度、神の手によって栄光を現す義の樫の木に変えられるとは、本当に深い意味があると思われます。今回、霊的戦い専門課程があるのですが、そのことを詳しくお話しさせていただきます。興味があったら、加わっていただきたいと思います。

 

イエスさまも、「わたしはまことのぶどうの木。」と、ご自分を木に例えられました。またモーセが神さまと出会ったのも、アカシアの木です。日本語聖書には「柴」となっていますが、「燃える柴」とは、原語を調べるとアカシアの木です。神はモーセに、木を通して現れたのです。木には神秘的なところがあります。

私たちが「回復された木」として、「神の植木」として受け入れられるという事は、本当に素晴らしいです。

 

先週一冊の絵本を読みました。絵本なんて、ほとんど読んだことはないのですが、最近、孫の一人が「僕、字が読めないんだけど・・。」と言って、本を持って来ます。「俺も老眼で読めないよ。」と答えます。私が家内に木の話をしたら「三本の木」という絵本を持ってきました。この「三本の木」という絵本を読んだことがある人、スイッチオン!おられますね。

私は初めて読んだのですが、どういうお話かと言うと、山の上に三本の木が立っていたというのです。

 

 

三本の木は、いろいろ将来の夢を互いに話したそうです。左側の木が、こう言ったそうです。「僕は大きくなったら宝箱になりたい。世界で一番美しい宝の箱になりたい。また、最高の宝石を入れる箱になりたい。」と語りました。

すると二番目の木がこう言いました。「僕は大きくなったら、船になりたい。それもちっちゃな舟じゃなくて、大きな船になって、世界の海に出て行くんだ!」と夢を語ったそうです。

すると三本目の木がこのように言いました。「私はこの山にずっと立っていて、登山した人たちが私を見て、神さまが分かるような、天を指さす高い木になりたい。」と語ったそうです。

月日は流れて、三本の木はどんどん大きく、太くなりました。ある日のこと、木こりがやってきて、なんと、この三本の木を全て切り倒してしまったのです。三番目の木も、この山にずっと生えていたいと願っていたけれど、むなしくも切り倒されてしまったのです。

一番目の木は、何かの箱に変えられました。やった!宝石箱か?と思ったら、それは飼い葉桶だったのです。毎日毎日、家畜の餌が入れられて、牛や馬が来て餌を食べるのです。家畜の餌箱にされた木は「俺はこんな人生…」いや、人生じゃなく、木ですから、木生でしょうか。「こんなはずじゃなかった!」と嘆いていました。「本来は宝の箱になりたかったのに!」むなしい日々が続きました。

二番目の木は舟になったのですが、大船ではなく、小舟だったそうです。毎日、湖に係留されて、生臭い魚を運ぶための運搬舟になったそうです。「俺はもっと大きな船になって、大海に出て行くつもりだったのに、なんてこった!」と嘆いていました。

さらに三番目の木は、製材されて角材になったのですが、そのまま広場に放って置かれたと言うのです。「私は山の上ですくすくと伸びて、神さまが分かるような存在になりたかったのに、何という木生だ…。」と嘆いていたのです。

 

しかしある晩、一番目の木によって作られた飼い葉桶に、そっと赤ちゃんが寝かされたのです。すると周りに人たちが来て、赤ちゃんを礼拝するのです。「何これ?」すると、天から光が差し込んだのです。その時、飼い葉桶の木は気づいたのです。「あっ!赤ちゃんは、イエスさまだ!」と。

飼い葉桶になった木は、世界で最高の宝箱になったのです。なぜならばイエスさまを寝かせるための、飼い葉桶になったからです。

 

湖に係留されていた生臭いボートに、ある日のこと、大勢の人たちが乗り込んで、湖に出て行きました。するとグループのリーダー格の人物が、乗り込んだらすくに舟の中で寝始めたのです。

舟が沖に出たころ、湖は暴風雨になって、小舟は湖底に沈没する寸前でした。小舟は、「人々をこれ以上守りきる事はできない!」

そんな瞬間でした。今まで寝ていた男がすくっと立ち上がって、風と波に、「黙れ静まれ!」と命じた途端、風がぴたっと止まったと言うのです。その時、この小舟は気づいたのです。「私はイエスさまをお乗せしていた!」。小舟でいつも嘆いていましたが、最高の人物、イエスさまをお乗せし奇跡を目撃したのです。

 

最後に、広場に放っておかれた木材のところに、ある日のこと、ローマ兵たちが来て、それらを組み合わせて十字架にしたというのです。そしてその十字架を、一人の男に担がせたのです。やがて十字架は丘の上に運ばれ、十字架を担いでいた男が釘付けにされたのです。

それを感じた木は、本当にびっくり仰天。「なんてこった!私は死刑のための道具として歩んできたわけじゃない!」と。しかしその後木は、十字架で死んだ男が三日後によみがえったことを聞いたのです。その時わかりました。「イエスさまだった!」と。

この三本の木は、それぞれイエスさまをお迎えすることができたのです。

結論として、この絵本ではこんな風に書かれていました。