「70年の満ちた2021〜回復と再建の年〜あなたは主の栄光を現す樫の木です」

神を信じる民に対して、神はどのように呼んでくださるのか。それは「義の樫の木、栄光を現す主の植木」と呼んでくださるのです。

「あなたは義の樫の木です。神の栄光を現す主の植木です!」と神は言われます。

この箇所を新共同訳で読んでみますと、

 

『彼らは主が輝きを現すために植えられた正義の樫の木と呼ばれる。』

 

聖書を見ますと、木々と人は、ただ比喩的表現だけではなくて、人とかなり密接な関係と関連づけを持って述べられています。「木(tree)」という単語を聖書検索してみれば、千箇所以上におよびます。ただ単に、木々を人に例えているだけではなく、木々は生き物で、主を賛美する存在であるという立場をとっています。

そして、ここでは人を「樫の木」と呼んでいるわけです。樫の木って、ご存知でしょうか?原語と英語では「Oak tree」を表しています。

 

 

 

日本でも樫の木を見かけますけれど、樫の木は、ご存じの方も多いと思いますけれど、大変堅い木です。そして粘りのある木です。そう簡単には折れないのです。

この写真のような樫の木ならば、地下に相当根を張っているはずです。でなければ上物を支えることができないです。この木が主を信じる者に例えられているのです。

時々、人生の中で波風立って、本当に苦しい時期があります。同様に木も風が吹いたり、雨が降ったり、嵐が来たりして、下に根を張るわけです。その結果、揺るぎない木として成長するわけです。

神は私たちを、弱い木ではなくて、強い木として育てようとされているという事です。

 

その目的としては、「主の輝きを現すための木」だと言うのです。新改訳聖書では、「彼らは義の樫の木、栄光を現す主の植木と呼ばれよう。」とあります。我々の存在を通して、神はご自分の栄光を現そうとされているのです。

今日皆さんが、この場所におられ、またネットで礼拝を守っておられるのなら、それは生きている証拠ですけれど、何の目的の人生かと言ったら、神がご自分の栄光を「あなたを通して現そうとされている」ということです。ですから一人一人の人生は重要です。

 

このように聖書を見ていきますと、木々と人との関係が密接であることがわかります。我々は木々を多く見ますけれど、そんなに重要視しないです。ただ普通の植物のように感じているのですが、木々とは、大変、霊的な植物である事が分かります。

第一歴代誌十六章にこんなことばがあります。十六章三十一〜三十三節、

 

『天は喜び、地は、こおどりせよ。国々の中で言え。主は王である。海とそれに満ちているものは鳴りとどろけ。野とその中にあるものはみな、勝ち誇れ。そのとき、森の木々も、主の御前で、喜び歌おう。確かに、主は地をさばくために来られる。』

 

木々は、我々と一緒に賛美する存在です。共に賛美する役割を持った、神が創造された植物である!ということがわかります。

 

神さまは人と交わるために、様々な仕掛けを被造世界に置かれています。神が人と出会うための法則が、聖書の中に記されています。

創世記の天地創造は、無から有を生じさせたというのですが、神さまは、「あってある方」ですから、無はありえないのです。『初めに神が天と地を創造した。』という意味は、神が被造物に、「機能を与えた」という意味です。そこには、神が人と出会うための機能・法則があります。

その一つが、「暦」であると、前回、お話しさせていただきました。今日は二〇二一年一月二十四日ですけれど、なぜ一月二十四日という認識があるのかと言ったら、暦があるからです。

 

前回もお話しさせていただきましたけれど、「二〇二一年一月二十四日に会いましょう!」と男・女が約束をしたとします。女性は日程を太陽暦で考えていたけれど、男性は古風な男で、太陰暦で生きていたとします。そうするとどうでしょうか。お互いが使っている暦が違いますから、太陰暦二〇二一年一月二十四日は、太陽暦に直すと、三月七日になります。

女性が一月二十四日に男性と会えると思って出かけて行ったら、男性はいないわけです。一方この男性は、一月二十四日に会える!と、太陰暦で出かけていきました。太陽暦だと三月七日になります。彼にとってはそれが、一月二十四日なのです。約束の場所に行っても会えないわけです。すれ違いです。お互い「不誠実だなぁ。」と言って、別れてしまうわけです。でもこれは不誠実じゃなくて、使っている暦が問題なのです。

 

私たちも神さまと出会うためには、神さまの暦に合わせないといけないのです。聖書を見ますと、聖書の暦は太陽暦ではありません。太陰暦です。月を中心とした暦です。

今日、私たちは、「日曜日。神さまと出会える日だ!」と考えて、この場所に来ています。しかし聖書が告げている神が人と出会う日は、新月を基準にして訪れる安息日です。

ちなみに一月の安息日は、二十八日です。本来、神さまと出会うためには、一月二十八日を礼拝の日にしなければならないのです。しかしこれは、旧約時代のことです。

しかし私たちは、旧約聖書の暦を意識せずに、ただ「日曜日は聖なる日」と思い込んでいるわけです。クリスチャンが日曜日に礼拝するのは、四世紀にカイザルによって暦が変えられた結果です。

しかしどんな背景があったとしても、私たちは十字架と復活により暦に勝利しているのです。コロサイ二章十六〜十七節、

 

『祭りや新月や安息日のことについて、だれにもあなたがたを批評させてはなりません。これらは、次に来るものの影であって、本体はキリストにあるのです。』

 

イエスさまの十字架と復活によって、どんな日でも神は人と出会って下さいます。祈りを聞いて頂けるのです。暦は十字架によって変えられたということです。

この日は主が造られた日であり、主が私たちのところに来てくださり、礼拝を受け取ってくださるのです。

しかし、旧約聖書の暦をよく知った上で、「主は私たちの所に今日も来てくださる!」と宣言することは、大変重要です。

 

それと共に、神が人間を木に例えていることも、結構重要な視点です。現代人は、ただの比喩じゃないかと考えるのですが、それ以上の意味があるのです。

神は人を被造物の管理人として造られました。この広い宇宙からミクロの世界まで、神は実に多くのものを造られました。そして、人にそれらを管理せよ!と命じられたわけですから、たいへんです。すべて管理するのは、不可能です。神さまは何を考えて、そんなに大きな領域を人に任せたのだろうと思ってしまいます。

実は聖書を見ますと、神が人に「管理せよ」と命じられた被造物は、原点においては多くはないのです。突き詰めれば、「二本の木を管理しろ」と言われただけです。

もしも、最初の人類「アダムとエバ」がこの二本の木を正しく管理できたとしたら、全人類は現在、幸せです。

神は何と命じられたのかと言ったら、「善悪を知る知識の木から実を取って食べてはいけません。」と言いました。

エデンの園に造られたアダムとエバは、この園に置かれて、善悪を知る知識の木を人をはじめ、動物たちにも食べさせないように、その道を管理すれば良かったわけです。そして、いのちの木の実を取って食べていれば、永遠に生きることができたはずです。

しかしそれができなくて、管理人自ら、善悪を知る知識の木の実を取って食べてしまったわけです。それが人の堕落の原点です。

ということは、人は「木々の管理人である」といえます。しかし管理ができなかったのです。

そんな我々が、義の樫の木、神の栄光を現す主の植木となるとは、深い意味が込められていると思われます。