「70年の満ちた2021 〜回復と再建の年〜 今日は父の日・神の家族」

またパウロは、ガラテヤ人への手紙四章二十六節で、

 

『しかし、天にあるエルサレムは自由であり、私たちの母です。』

 

と語っています。天のエルサレムとは、「神の国」を表します。神の国の中に、母性的な概念は全て含まれ、完璧な自由度をもっているというのです。

もちろん神には性別はありません。性別を創造された方です。神は、性別はなくとも、最高の男性像、女性像、家族像、子どもの姿をお持ちです。その完全さが天の家族を形成しており、私たちはその家族の一員なのです。

三位一体なる神の中に、母性的な、女性的にも完璧な領域があるのです。

さてそれは、どの領域でしょうか。神は三つで一つですから、どなたも共有しておられるわけですが、人が造られた時に、アダムにとってふさわしい「助け手を造ろう」と神は言われました。そして神は女を造り上げたと記されています。助け手として女性を創造されたと言うのです。ということは、父なる神さまは、男性的な象徴です。子なるイエスさまは男性としてこの地に来られました。彼は人類の長男として来られました。

しかし、聖霊さまは「助け主」です。ということは、聖霊さまが、母親としての属性を持っておられる神ということになります。

 

さて、皆さんはどうでしょうか。聖霊さまについてどのようなイメージをお持ちですか。力強く、男性的なイメージがあるかもしれません。しかし聖霊さまの本質は、助け主として、きめ細かな性質を持って、私たちに関わってくださる方なのです。

私も家内と暮らしていて、家内は色々と気を配って配慮するんですね。子どもたちの事とか、孫たちのこととか、色々、配慮します。孫たちに出会うとすぐに、「ご飯食べた?」と聞きます。「腹減ったら誰でも食うだろ!」と、私は気にしないのですが、家内は気になるみたいです。東京に住んでいる息子たちの所にも、何かを送ったりします。私は、「そんなの東京にいくらでもあるよ」と言うのですが、色々、配慮をするわけです。男性は駄目です。全くそういう機能はありません。

父なる神さまは、神としての権威を持って、全てを支配しておられる神さまです。しかし聖霊さまは、女性的な側面を持って、私たちに対して微に入り細に入り、細かく配慮してくださる神なのです。

 

しかしながら、「父なる神さま、子なるイエスさま、母なる聖霊さま」と祈れるのかと言うと、なかなか違和感があります。しかし案外、違和感があるようなところが、大切な部分で、悪魔が真理から目を逸らして働いている領域であることが多いものです。

 

今日は父の日ですが、母にもスポットを当てながら、天のファミリーに関して、理解を深めていきたいと思います。さて、キリスト教会が女性に関して、距離を置くと言うか、そのようになったのには歴史的な背景があると先ほど語りました。

どうしてそういう風に変わったのかというと、この世の神々には、「性別がある」からです。偶像の神々、異教の神々には、性別があります。男性神、女性神という具合です。日本神話の神々にも、必ず性別があります。ゆえに異教の神々と区別するために、旧約聖書は神の性別を強調していないと言われます。

それとともに、歴史的に、母なる神の姿をぼやかしたのは、他でもなく、ローマ・カトリックの強い影響です。キリスト教は、ローマ・カトリックとプロテスタントの二大勢力のように考えるかもしれませんが、私たちの教会はプロテスタント教会です。カトリック教会ではありません。

そして、よく知って頂きたいのですが、「カトリック教会は、キリスト教ではない」です。はっきり、このことを理解して頂きたいと思います。カトリック教は、キリスト教ではなくて、「マリア教」です。

今、YouTubeで配信がなされていますが、配信が終わると、自動的に次の配信に切り替わる設定をオンにしておくと、他の礼拝なんかが上がってきたりします。設定をオフにしたほうが良さそうです。この間、新城教会の礼拝が終わって、ふっと見たら、カトリック教会のミサをやっているわけです。そうすると、「あっ、これもキリスト教かな・・。」と思い、見てしまいます。しかし見ていると知らないうちに、毒が入ります。是非とも気をつけていただきたいと思います。

カトリック教会は、三位一体も認めます。しかし最高神として、誰を祀っているのかと言うと、「マリア」です。どうしてかと言うと、「マリアはイエスという神を生み出した母なのだから、彼女こそが宇宙の最高神だ」と主張するわけです。

私たちにとっては、三位一体の神の役割としては、父なる神が最高神です。しかしながら、彼らは、「神そのものであるイエスを生み出した母マリアは、その上だ」という主張です。ゆえに「マリア教」なのです。

有名なルーベンスが描いた絵画の中に、それが如実に表れています。その絵画に関して次のような説明があります。

「この絵画は、三位一体によって月桂樹で編まれた勝利の冠がマリアに授けられている。三位一体によるマリアの戴冠によって、マリアは神聖なる天の女王とみなされ、プロテスタントと根本的に区別される。」

 

カトリックでは、イエスさまが昇天しただけでなく、マリアも昇天したと教えます。それは全く非聖書的な教えです。「マリアは神に用いられた女性の一人」というのが、聖書の告げる真実です。

今述べたように、カトリックの主張は異端的な教えであることは間違いありません。しかし異端も数が多くなれば、正統派になります。カトリックはまさにそれです。イエスさまも昇天したけれど、マリアも昇天し、マリアが昇天した時、三位一体なる神から冠をも戴冠された。ゆえに、マリアが「天の女王」だというわけです。これは大きな問題を含んでいます。イエスさまの十字架の勝利を地に落としています。

 

先のローマ法王ヨハネ・パウロ二世が次のようにマリアに関して語っています。

 

「マリアはキリストの母として教会の中に存在し、それと同時にこの母は人類の贖罪の秘法である」

 

「イエスだけでは救われない。マリアとカトリック教会によってのみ人は救われる。」というのです。聖書の真理から完全に離れた、間違った悪魔の教えです。カトリックをプロテスタントと一緒にしてはいけないのです。しかし最近、そのような風潮が強くなっています。私たちの教会に、インターナショナル・ミニストリーがありますが、南米の方々がクリスチャンになるというのは、何を意味するのか。それは、カトリックを捨てて、プロテスタントに変わることです。日本人ならば、仏教や神道を捨てて、クリスチャンになりますよね。南米では、カトリックを捨てることが「救い」です。カトリックは、私たちとは、礼拝の対象が違うのです。

ローマ法王のコスチューム、すごいですよね。コスプレ大賞がもらえそうな姿をしています。しかしこの衣装には意味があるのです。ルーベンスの絵と比べて、あれ?と思った人はいますか?この絵の中に、同じ衣をまとっている存在が描かれています。これは三位一体なる神の中で、イエスさまを表しています。ローマ法王も、同じ衣服をまとっています。それは何を意味するのか。

彼ら自身が文書の中で主張していますが、

 

「教皇はとても威厳に満ちて高いため、単純に人ではなく神であり、イエス・キリストの代理者であるだけでなく、肉体のベールの中に隠されたイエス・キリスト自身である。」

 

法王は「俺はイエスだ。」と主張しています。そしてその上に、マリアがいるという設定です。このような主張があるがゆえに、プロテスタント教会は、マリア崇拝を警戒して、母なる神という概念を強調しなくなったのです。母なる神のポジションをマリアに奪われたのです。その為に警戒心があることは確かです。

 

イエスさまが話されていた言語は、アラム語です。そしてアラム語に翻訳された聖書が残っています。これは明確な年代がわかる聖書としては最古のものです。それを「ペシタ訳聖書」と呼びます。これはアラム語です。紀元二世紀ぐらいに、すでにアラム語に聖書が翻訳されていました。アラム語は、実際、イエスさまが語っていた言語です。ペシタ訳聖書を見ますと、西暦二〇〇年頃は、「風」と「聖霊」が女性名詞で扱われ、聖霊を女性として扱っています。

しかし紀元四世紀、六世紀頃になると、だんだんとそれが、女性形から男性形に変化しています。四世紀頃、それはローマ・カトリック教会が台頭してきた時期です。やがて聖霊を男性化してしまったという歴史があります。ヨーロッパ語族には、単語に性別があります。新約聖書のギリシャ語では、聖霊は男性名詞です。しかしイエスさまが語られていたアラム語においては、女性名詞として扱われていたわけです。

その歴史を扱った論文に、「聖霊が鳩のように降りる」という描写も、伝統的な意味において、優美で女性的であり、ここにはアラム語の霊、風、空中を動く鳥のようにというロジック、女性的なロジックを感じさせられる、とありました。

 

神さまには性別はありませんが、聖霊を案外、私たちは男性と勘違いしているところがあります。しかし女性的な側面をたっぷりお持ちの、完璧な女性として描かれているのです。ですから、女性が聖霊に満たされると、完璧な女性になることができるはずです。男性も聖霊に満たされるならば、聖霊は助け主として、完璧な方ですから、夫婦関係もうまくいくようになると思いますし、この世の人間関係においても、勝利が現されるはずです。

私たちが目標とするファミリーは、父と子の二人だけではなくて、天に母を含む完璧な家族があるという事です。その家族に私たちは目を留めて、その家長である、父なる神さまに祈りをささげるという構図です。

パウロはそのことをよく知っていました。

 

『こういうわけで、私はひざをかがめて、天上と地上で家族と呼ばれるすべてのものの名の元である父の前に祈ります。』

 

パウロは天上におられる父なる神さまの役割、また子なるイエスさまの役割、そして、母の役割をされている聖霊さまという、天上の家族をしっかりと意識しながら、地上の家族を位置づけていたのです。そして私たち一人一人も、その家族の中に含まれるということです。

ヘブル人への手紙二章十一〜十二節はちょっと分かりにくいのですが、実際はすごいことを語っています。