「70 年が満ちた2021 回復と再建の年! 〜この地は主のもの〜 地域を勝ち取る宣教!」

2021年7月04日(日)新城教会主任牧師 滝元順

民数記32章21〜22節

『あなたがたのうちの武装した者がみな、主の前でヨルダンを渡り、ついに主がその敵を御前から追い払い、その地が主の前に征服され、その後あなたがたが帰って来るのであれば、あなたがたは主に対しても、イスラエルに対しても責任が解除される。そして、この地は主の前であなたがたの所有地となる。』

皆さん、おはようございます。ハレルヤ!大変すばらしい賛美を聞くことができ感謝します。
今週は新城教会にとっては、重要な記念日があります。ぜひ覚えて過ごしていただきたいと思います。
特に、七月九日について、お話をさせていただきます。聖書暦では、七月九日が本当の五旬節、ペンテコステになります。その日は安息日で、モーセが律法を神から預かった記念日にも重なります。このように聖書暦的にも重要ですが、新城教会におきましては、「ヘブンズ・アイスクリーム&コーヒー」がオープンする日でもあります。
しかしなんと言っても忘れられないのは、その日は、一九九二年七月九日、朝六時、地域の霊的戦いが始まった記念日です。七月九日はそれらを記念して、早天祈祷会を行いたいと思っています。またこの日は、1575 年、設楽が原の戦いが起こった日でもあり、祈りが必要です。
今週は特別、祈り深くありたいと思います。

また今日は、「リバイバル感謝報告書」を皆様に手渡せることを本当に嬉しく思います。二〇二〇年度の報告書です。二〇二〇年は、宣教七十周年という記念すべき年でしたが、それとはよそに、私の今までの人生の中で、最も大変な年ではなかったかと個人的には感じています。大患難時代があるとしたら、まさに二〇二〇年ではなかったかとさえ思うほどです。
皆さんに祈っていただいているように、一昨年、家内に膵臓癌が発見されて、当時は、三、四ヶ月の命だと宣告されました。腹水が溜まって、お腹が膨らみ、そう長くは持たないだろうと思いました。
そうこうしているうちに、新型コロナの蔓延でした。対面での礼拝もできなくなり、世界宣教や対外的な働きもすべて無くなりました。たいへん不安になりました。家内のように基礎疾患があると、感染の危険度も大きく、様々な方面から追い詰められました。
また経済的にも大変になって、教会で働く職員達にいつまで給料を支払うことができるのか、経済的にも行き詰まった年でした。皆さんも同じ体験をされたかも知れません。
しかし振り返ると、本当に、よくぞやってきたという感じです。そこには主が守ってくださった、奇跡の足跡を見ることができます。心の底から、主をほめたたえ感謝致します。
もちろん、まだまだ戦いは続いておりますが、主が共にいてくださることを実感しています。今年はそれを証明し、記念する「リバイバル感謝報告書」となりました。礼拝が終わりましたら、少し、ご説明させていただきます。

時に人生の中で、「もういい。これ以上進めない!」と、全てを投げ出したくなる時あります。まさに私も昨年はそんな気分になりました。私は案外、逆境には強いほうだと思っていましたが、人間ってそういう立場になると、結構、もろいものです。「俺なら大丈夫」なんて思っていても、なかなか難しいものです。

今日読んでいただきました聖書箇所は、モーセが語った言葉ですが、ルベン族とガド族の人たちに告げた言葉です。
背景を知らないとよく理解できないのですが、ヘブル民族はエジプトで四百三十年間奴隷とされていました。しかしモーセによって解放され、すぐにでもカナンの地に帰れるかと思ったら、荒野で四十年間もさまよい、やっと神からの許可が下りてヨルダン川を渡って、カナンの地に攻め入る寸前にまでこぎつけました。
モーセは八十歳でエジプトを旅立ったのですが、すでに百二十歳になっていました。「さぁ、カナンの地に攻め込むぞ!」と士気を上げているただ中の出来事でした。イスラエルは十二部族によって構成されていたのですが、ルベン族とガド族の人たちが、モーセと祭司エルアザルのところに来て、「ちょっとお願いがあるのですが、、」と言いました。何を願ったのかと言うと、「よろしければ、私たちはこの場所を領地と定めて、この地に住みつきたいのです。だからヨルダン川を渡らせないでください。」と頼みました。今まさに、十二部族がひとつとなって、戦いに挑もうという時に、ルベン族とガド族の人たちは、ヨルダン川を渡りたくないと言い出したのです。
なぜなら、彼らは多くの家畜を持っていたからです。彼らが欲したヨルダン川の東側は、標高七百から八百メートルぐらいあって、砂漠地帯にしては牧草も多く、牧畜に適した地であったからです。ルベン族とガド族の人たちは、新しい世代のためにも、ここに自分たちの街を建てるのが一番いいと考えたのです。民数記三十二章全体を読んでいただきたいと思います。
それを聞いてモーセはたいへん怒りました。「何を言っているんだ!今からヨルダン川を渡ってカナンに攻め込もうとする直前に、おまえたちはどうして士気をくじくのだ!」と怒りました。すでにイスラエルは、エジプトを脱出した世代は死に絶えて、新しい世代になっていました。
モーセは「おまえたちの父親の世代、四十年前、我々に何が起こったのか知っているか?イスラエルは不信仰のゆえに、カナンの地に入れずに、荒野を今まで迷わされたではないのか。もしもおまえたちが協力しなければ、イスラエル全体が再度、危険にさらされる事になる!」と言いました。
そして語った言葉が、民数記三十二章二十一節〜二十二節でした。

『あなたがたのうちの武装した者がみな、主の前でヨルダンを渡り、ついに主がその敵を御前から追い払い、その地が主の前に征服され、その後あなたがたが帰って来るのであれば、あなたがたは主に対しても、イスラエルに対しても責任が解除される。そして、この地は主の前であなたがたの所有地となる。』

ルベン族とガド族の人たちは、先に結論ありきでモーセと交渉に来ました。彼らが頑ななのを知ったモーセは、彼らに条件を出したのです。「おまえたちが皆と協力し、一緒にカナンに攻め込み、敵を御前から追い払い、その地を征服したら、あなたがたは責任から解除されて、住みたいと願っている土地を所有出来る。」と言いました。

しかし続いて、モーセは彼らに厳しいことを語りました。民数記三十二章二十三節、

『しかし、もしそのようにしないなら、今や、あなたがたは主に対して罪を犯したのだ。あなたがたの罪の罰があることを思い知りなさい。』

ルベン族とガド族の人たちは、モーセの預言的な言葉を聞いて震えおののいて、「分かりました。私たちは兄弟たちと一緒に、カナンの地に攻め込みます」と約束し、カナンの地に攻め込んだという背景があります。

ルベン族とガド族の荒野で生まれ育った世代の人たちは、神がイスラエルをエジプトから救い出された意味と使命を理解していませんでした。使命とは、ヨルダン川を渡り、敵を御前から追い払い、その地を征服するというものでした。「その後、あなたがたが帰って来るのであれば、あなたがたは主に対しても、イスラエルに対しても責任が解除される。」とモーセは語りました。
イスラエルがエジプトであれほどの奇跡を体験し、敵の手から解放されたのは、ただ単に、故郷に帰る為ではなくて、敵の手に陥った故郷を、もう一度、奪還する為であったのです。それは神に対し、イスラエル民族全体に対しての責任であり、果たさなければならない使命でした。モーセは、「その責任を果たさなかったら、大きな罪だ」と告げたのです。

現代を生きる私たちにも、同じことが言えると思います。私たちが救われたのは、ただ単に、天国に行けるとか、問題から解放されて自由になるという、幸せを得るためのツールではないのです。
なぜ私たちは救われたのか、それは、この地とそこに住む人々を勝ち取るためです。
世代が変わり、ルベン族とガド族の人たちは、使命を忘れていたのです。本来はカナンの地に攻め込んで、敵の手から、かつてアブラハムが神からいただいた約束の地を奪還する、大きな使命があったのです。
ルベン族とガド族の人たちは、モーセに脅されて、他の部族と一緒に、戦いに出て行ったのですが、なぜ戦いに行ったのかと言えば、「戦いが終わったら戻ってきて、牧畜に適した地を得る事が出来る」という期待からでした。それが自分たちの子孫のためになると、彼らは考えたからです。

「旧約聖書は新約聖書の影である」と、いつも語っていますが、旧約聖書には、血生臭い戦いの記録が多く出てきます。彼らは、カナンの人たちを「聖絶」といって皆殺しにしたりしました。
この箇所を、ある聖書学者が解説していました。出エジプトを果たしたイスラエルにとって、「神を愛する」という実際的行動は、「偶像の破壊」であったというのです。カナンの地の偶像を、偶像礼拝者もろとも全て破壊する、それが神を愛する行動でした。なぜならば、偶像礼拝が神の前で、最も大きな罪であるからです。
詩篇九十六篇五節に、

『まことに、国々の民の神々はみな、むなしい。しかし主は天をお造りになった。』

という箇所があるのですが、「神々はみな、むなしい。」とは、「偶像」という意味もあります。さらにヘブル語旧約聖書をギリシャ語に訳した「セプチュアギンタ、七十人訳聖書」によると、「偶像の神々は皆、悪霊どもだ。」と訳しています。偶像イコール悪霊どもを意味します。
なぜ神が、偶像と偶像礼拝者たちを一掃せよと命じたのか、それは悪霊どもを一掃する為でした。

旧約聖書の「偶像を破壊する」とか「聖絶」は、新約聖書ではどのような実体となるのでしょうか。それは「霊的戦い」です。今は、主イエスの十字架と復活によって、我々は、公生涯のイエスさまと同じように、人々は愛して、背後の悪霊どもを追い出す働きができるのです。背後の「悪霊どもを一掃する」働きがクリスチャンと教会に任せられているのです。それが新約時代を生きる者たちの役割であり、責任です。

しかし時々、「もう戦いは十分だ。もう戦いを放棄したい。」と感じることがあります。しかし神は決して、そのようには願っておられないのです。
新城教会は今年で七十一年の歴史がありますが、長く、この地で福音宣教を継続しています。しかしなかなか、福音が地域に浸透していきません。
そのことに関して、パウロはコリント人への手紙の第二、四章で次のように語っています。一〜二節、

『こういうわけで、私たちは、あわれみを受けてこの務めに任じられているのですから、勇気を失うことなく、恥ずべき隠された事を捨て、悪巧みに歩まず、神のことばを曲げず、真理を明らかにし、神の御前で自分自身をすべての人の良心に推薦しています。』

日本の社会の中で、クリスチャンとして歩むことがいかに大変なのか、クリスチャンなら誰でも感じておられると思います。しかし日々感じるストレス、そのものが霊的戦いなのです。一般の世界は罪の中にあって、恥ずべき隠されたことを行いながら悪巧みに歩んでいます。しかし私たちはそれと逆行して生きています。しかしそれには、相当なストレスがあります。
けれども、それがすなわち、霊的戦いそのものなわけです。「クリスチャンをやめちゃおうかな・・。」と思ってはいけないのです。どのようなストレスがあったとしても、雄々しく戦うのが私たちの使命です。

パウロは、続いて次のような重要な言葉を語っています。三〜四節、

『それでもなお私たちの福音におおいが掛かっているとしたら、それは、滅びる人々の場合に、おおいが掛かっているのです。その場合、この世の神が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです。』

私たちが真理に堅く立ち、人々の前に証ししても、「それでもなお」、人々が耳を傾けないとしたら、どこに原因があるのか、それは、人々に「おおいが掛かっている」というのです。
今日、もしも、私が大きな毛布を持ってきて、皆さんの上に広げたら、電気がついていても、光は届きません。光を届けるために、ワット数を倍にしても、おおいが掛かっている以上、光は届きません。
光を届けたかったら、何をしたらいいのか。まず第一に、「おおいを取り去らなければいけない」ということです。取り去ったら、光は自動的に届きます。

福音宣教も同じだというのです。そのおおいとは、「この世の神」が不信者の思いをくらませている、すなわち、悪霊どもです。偶像の後ろに働く悪霊どもがおおいとなっているというわけです。
日本のリバイバルの為には何が必要か。もちろん真剣に伝道して、祈らなければいけないわけですが、同時に、「おおいを取る」働きは、欠かすことの出来ない働きなのです。

旧約時代の「おおいを取る」行為は、カナンの地に実際に攻め込んで、偶像礼拝者であるカナン人たちを聖絶し、偶像を破壊することでした。しかしそれは影であって、実体は、「霊的戦い」なのです。霊的戦いがなければ、おおいは一掃されずに残りますから、宣教は進展しないのです。

一九九二年七月、主がその事を、預言的、実際的に教えて下さいました。一九九二年、三年は、日本の教会がリバイバルのために立ち上がった年でもありました。特に九三年の十一月に行われた「甲子園ミッション」のために、一丸となって戦った年でもありました。
そのことを覚えておられる方も、多くおられると思うのですが、その働きの中で二月に聖霊が注がれました。
特に若い世代の方々が、聖霊に満たされて立ち上がりました。そして一つのイベントを新城で計画しました。それは何度も聞いているかもしれませんが、「ハートフルサパー1000」というイベントでした。豊川の河川敷に千人分のバーベキューも用意し、伝道集会を行うという計画でした。若者たちは六月頃からその為に、河原にテントを張って、毎日、祈っていました。後半は二十四時間テントの中で祈っていました。するとそこで更なる聖霊の注ぎがありました。