「70年の満ちた2021 回復と再建の年 〜永遠のいのちを得るために〜」

それには理由があるのです。今日読んでいただいた箇所は、律法の専門家が、イエスさまに質問したところから始まっています。「律法」とは「十戒」を意味します。「律法の中で、どれが一番大切ですか?」という質問でした。

 

実はイスラエルに十戒が与えられた後、「律法の専門家」と呼ばれる連中が出てきました。そして十戒を小分けしたのです。「この戒めは、こういう意味だ。ああいう意味だ。」と、細則をいっぱい付け加えたのです。それを「口伝律法」と呼びます。それが当時、いくつあったのかと言ったら、「六百十三」ありました。「口伝律法も守らなかったら、神との交わりは回復しない!」と、律法の専門家と呼ばれる人たちは人々に教えました。

しかし律法の専門家たちは、人に言うだけで、自分では守っていませんでした。ただ、庶民たちに重荷を押し付けただけでした。だからみんな疲れたのです。「神さまとの関係を回復することは難しい・・」

 

そんな只中、神は次の手を打たれました。それは、ご自分のみ子、イエスさまを地上に送られたのです。

「イエス・キリスト」と、私たちは気安く呼んでいますが、イエス・キリストとは、どういう意味でしょうか。それは「ジュン・タキモト」みたいなもので、「イエス」がファーストネームで、「キリスト」が苗字でしょう、みたいに考える人が多いかもしれません。

また教会で、「メシヤ」という言葉をよく耳にします。「メシヤ?それ何?ザ・めしや」。

キリストとメシヤは関連があります。メシヤとはヘブライ語の慣用的な読み方で、「油注がれた者」を意味します。そのメシヤを、ギリシャ語では「クリストス」、キリストになります。「イエス」もギリシャ語読みで、ヘブル語読みは「ヨシュア」です。この「イエス」とは、個人の名称です。しかし「キリスト」とは苗字ではなく、油注がれた王、「救い主・救世主」を意味します。ですから、「イエス・キリスト」とは、「イエスは救い主!」という意味です。

イエス・キリストと簡単に口にしますけれど、「イエスは救い主!」という宣言です。

 

律法が六百十三にも小分けされて、守ることに疲れて、失望していたただ中に、救世主イエスさまが送られたのです。

 

『神は実にそのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで永遠のいのちを持つためである。』

 

とあります。永遠のいのちを与えるために、み子イエスさまは、地上に来てくださったわけです。

そして何をしてくださったのかと言うと、六百十三にも細分化された律法を、「戒めを守ることは本来は簡単だ」と、自ら、その道を示して下さったのです。

イエスさまと寝食を共にした「ヨハネ」という人物が、こんなことを語っています。

ヨハネ第一の手紙 五章三節、

 

『神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。』

 

このことばは、時代背景と重ねて考える時、本当に深い意味を含んでいます。多くの人たちが、神の命令を守るのは大変だ!と考えている只中で、ヨハネは「その命令は重荷とはならない。」と語ったわけですから。「えっ!?本当?」という感じです。みんな四苦八苦しているのに、あなたはなぜ、重荷とならないのですか?と聞きたくなります。

実は、それには理由がありました。律法の専門家がイエスさまに「永遠のいのちを得るためには、どうしたらいいのですか?」と質問したところ、逆にイエスさまから質問を返されて、「あなたは律法をどう解釈していますか?」と聞かれました。

その時、この律法の専門家は、素晴らしい回答をしました。六百以上に増えた、訳の分からない律法を、なんと二つにまとめて答えたからです。「律法の中心は神さまを愛することです。そしてもう一つは隣人を愛することです。」と答えました。

するとイエスさまは「その通りです。それを実行しなさい。そうすればいのちを得ます。」と答えられました。

これは、イエスさまが実際に語られた言葉ですから、たいへん重要です。なぜなら、これは永遠のいのちを受け取る為のカギとなる命令だからです。私たちは恵みによって救われるのですが、神の命令を守ることも必要となります。しかしその条件は重荷とはならないのです。それも、たった二つだという事です。

それは「神を愛する事」と、もう一つは「隣人を愛する事」です。「これを実行したら、いのちを得ます。」とイエスさまは語られたのです。神さまとの関係回復は、決して難しいものではありません。

 

イエスさまが地上に来られて、神の子として、十戒を二つにまとめて下さったのです。

十戒の一番から四番は、神との関係です。そして、五番から十番までは、人と人との関係を表しています。それを「愛」という帯で結んでくださったのです。一番から四番は、神を愛するということで全て実現できます。神を愛していたら、偶像なんか絶対に拝みません。作りません。また隣の人を愛していたら、殺すなんてあり得ません。愛していて、隣人から盗むこともありません。「隣人を愛する」ことに全てが含まれるのです。

 

ということは、イエスさまが地上に来られて、何をしてくださったのかと言ったら、今まで越える事ができなかった律法を、二つにまとめてくださったのです。ですから、近くでイエスさまを見ていたヨハネは、「神を愛することは、神の命令を守ることであり、その命令を守るのは重荷とならない」と発言できたのです。それはヨハネが、イエスさまが律法を二つにまとめられた結果を体験したからです。

このことを覚えたら、永遠のいのちが与えられると言うのですから、すごいじゃないですか。神さまを愛する、隣人を愛することの二つで、永遠のいのちゲット!これを実行しない手はありません。初め、人間は完璧だったわけです。その時代に戻ることができるのです。

イエス・キリストとは、「イエスは救い主」です。十字架の死と復活によって、悪魔と罪を打ち砕いてくださいました。その結果、神への障壁を取り去って下さったのです。私たちを原点に戻してくださるのです。これが聖書が述べている救いです。

 

すると、律法の専門家は「突き詰めれば、隣人を愛するという一言に尽きる・・。」と考えました。なぜなら、「神を愛する」、「隣人を愛する」は、ちょうどコインの裏・表のようなものだからです。コインの表に、「神を愛する」と刻まれていたら、その裏側は「隣人を愛する」と刻まれています。もう一回反転すれば、「神を愛する」と刻まれているからです。

ゆえに、神を愛するとは、神の存在を前提とするならば、突き詰めれば、「隣人を愛する」ことになるわけです。

それで律法の専門家は「隣人って誰ですか?」と、イエスさまに問いかけたわけです。その時のイエスさまの答えが、有名な「良きサマリヤ人の例え」でした。ルカ十章にありますから、読んでいただきたいと思うのですが、要約するならば、ユダヤ人とサマリヤ人という、隣あって住む二つの民族に関する事柄でした。当時、両民族は対立していました。イエスさまは、両者に起こった事件を題材に、隣人とは誰かについて説明されたのです。

 

ある時、エルサレムからエリコに下る道で、旅人が強盗に襲われました。それはユダヤ人であったと思われます。そこをユダヤ人の祭司とレビ人が通過しました。旅人の同胞が通りかかったのです。しかし彼らは旅人を助けませんでした。

傷ついた旅人を助けたのは誰かと言ったら、ユダヤ人と敵対関係にあった「サマリヤ人」でした。敵方のユダヤ人を、手厚く介抱して助けたのです。

このストーリーを語り、「これが隣人を愛するということだ」と説明され、それがイコール、永遠のいのちに至る道であるとされたのです。 「隣人を愛する」とは、隣に座っている方を愛するとか、ご主人ならば奥さんを、奧さんならご主人を愛する、子どもたちを愛するという事も含まれますが、根源は、民族問題を扱っているのです。永遠に至る道である「隣人を愛する」という概念は、深く、幅広いものです。それは、敵対して住んでいる二つの民族の和解を意味しています。

 

今週からオリンピックが始まるのですが、私はオリンピックのために、とりなし祈らなければいけないと感じています。オリンピックの背後に、悪魔の策略があります。それはお互いの民族意識を高めて、隣人を愛するという教えから離す策略です。

例えば日本と韓国戦というゲームがあったら、どちらを応援しますか。日本人で韓国を応援する人は少ないと思います。韓国人が日本人を応援することもないかもしれません。韓国が負けたら、日本人は「やったぞ!」と喜びます。アメリカが日本に負けたら、日本人は「やったぞ!」と喜びます。オリンピックには、背後に、民族意識を高めて、分断を助長する悪魔の策略があると思います。そもそもオリンピックとは、平和の祭典とか呼ばれますが、それは偽りで、中身はスポーツを武器とする、世界大戦です。

神は、迷い出た人類が、多くの国々、多くの民族へと分かれたことを悲しんでおられます。人類は昔は一つでした。神は人類に、ひとつとなれ、と呼びかけているはずです。

特に、神が願っておられるのは、隣に住む民族を愛し、受け入れることです。それが永遠のいのちに至る道なのです。本来、これはすごく重要なテーマです。日本人は中国、韓国、北朝鮮の祝福を祈らないといけません。この教会では、そのことが実行され、一つになっています。

 

その延長線で、ルカ十二章では、「隣人と訴訟になった場合には、裁判までに、熱心に和解するように努めなさい。」とあります。まずは民族間の和解を語り、その後に、個人的な和解が述べられています。

和解・一致は、永遠のいのちに至る大きな条件です。我々が考える以上に、重要な事柄だと言えます。

 

ヘブンズ・アイスクリーム&コーヒーが開店しましたが、個人的に本当に感謝しています。なぜなら、私の祈りが答えられたからです。「アイスクリーム屋ができることを祈っていたの?」ではなくて、私は長年、一つの事柄を祈っていました。今でも、祈っています。

新城教会には、七十年の歴史があるのですが、宣教の初期に、教会から派遣され、教会を設立して現在も、牧師をしている人たちがいます。

しかしそれらの多くは甲子園ミッションに反対し、交わりが途絶えました。けれども主は、「反対した牧師たちの祝福を祈りなさい。」と語られて、長年、回復を願い祈っています。

実はヘブンズ・アイスクリーム&コーヒーの工事中に、多くの人が声をかけてくれました。三河便で、「ほい、何ができるだん?」「アイスクリーム屋さんだよ。」と答えると、「そうかん。また来させてもらうでのん。」みたいな感じで、多くのコミュニケーションがありました。