時々、「私はある預言者から、このような預言をいただいたのですが、実現していません。」という方がいます。実現するどころか、悪い事が起こったということも聞きます。どうしてでしょうか。偽予言なのでしょうか。その可能性もありますが、そこには一つ理由があります。
「神に委ねろ」と告げた次に、我々が実行しなければならない「任務」が記されているからです。それは、『堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。ご承知のように、世にあるあなたがたの兄弟である人々は同じ苦しみを通って来たのです。』とあるからです。

神に重荷を委ねるとともに、様々な試練の背後に働くのは、神ではなく「悪魔・悪霊ども」ですから、立ち向かう必要があるのです。神は悪しき存在も使いながら、私たちに良い着地を与えて下さるのですが、我々は、「堅く信仰に立って悪魔に立ち向かう任務」があるのです。ただ委ねただけでは、真の答えまでに、なかなか行き着くことができないのです。
「古の多くの聖徒たちも、同じ経験、苦しみに出会ったではないか、そこには悪魔の介入がある」と、ペテロは語っています。霊的戦いとは、「苦しみに耐えながら前進する」ことです。
家内も預言をもらったり、孫の勝門に夢が与えられたりして、主からの大きな励ましもありましたけれど、毎日が激しい霊的戦いでした。それは今も、継続中です。この戦いを、私たちだけでなく、キリストのからだ全体が戦って下さったことによって、ここまで来る事が出来ました。

その結果として『あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。』と約束されています。

私たちには苦しみから逃げたい!という気持ちが強いですが、決して逃げることなく、真正面からガチンコ勝負で、背後に働く暗闇に立ち向かう時、霊的戦いは前進します。めげないで、前進し続ける信仰、これが霊的戦いそのものなのです。
様々な苦しみのただ中におられたら、信仰に立って、真正面から立ち向かって下さい。それはイエスさまの苦しみの欠けた所を満たすことになります。イエスさまの十字架の苦しみによって、死の力は打ち破られ、人類最大の勝利と喜びにつながったのです。

以前にも詳しく語りましたが、教会とは、ただ人類だけが所属している機関ではありません。他の被造物もすべて、キリストの体に属しているのです。ローマ人への手紙八章を見ますと、八章二十一節、

『被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由に預かります。私たちは知っています。被造物のすべては今に至るまで、ともにうめき、ともに産みの苦しみをしています。』

ここには「ともに」と記されています。私たちが様々な試練に会う時に、我々の管理下にある、被造物も一緒にうめき苦しみ、祈りに参加している。のです。これに気づかされると、本当に勇気づけられるのではないでしょうか。
今回、私たちのために多くの方々が祈ってくださったと共に、被造物たちも、新城教会の牧師、牧師夫人の霊的戦いに参加してくれたと信じています。

家内の病気が発覚して二日目ぐらいに、一人の婦人が、家内にどうしても会いたいと言って、病院に来てくださいました。
そこでどんなことを話して下さったかと言いますと、彼女は家内のことを聞いて、大きなショックを受けて、うめき苦しんで祈ってくれたそうです。
するとその夜、不思議な夢を見たと言うのです。それは、「この戦いは、享子に対するように見えるけれど、最大のターゲットは順牧師だ」と夢の中で主から語られたそうです。家内を苦しめたら、私も一緒に倒れるから、悪魔はその為に働いているから、「順牧師のためにも祈れ」と夢の中で語られたと言うのです。
すると目の前に、連鎖祈祷のリストが出てきたと言うのです。瞬く間に、日本全国、いや世界中の人たちが「私も祈ります!私も祈ります!私も祈ります!」と、祈祷リストが埋まっていったと言うのです。実際、今回、世界宣教LINEなどを通じて、世界中のクリスチャンと教会が私と家内のために祈ってくださいました。
夢の中で、どんどんリストが埋まっていくので、自分もリストに名前を加えなくちゃ!と思って見ていたら、なんと、天の星々、星屑さえも、「祈ります。祈ります。祈ります。」と加わっていったという夢だったそうです。「そんな不思議な夢を見ました。」と告げて下さり、大いに励まされました。
今まで私たちは、すべての被造物の回復を祈ってきましたけれど、今回の戦いは、ただ私たちだけでなく、被造物全体の戦いだと意識して戦うようになりました。

私はよく、県民の森で祈るのですが、森全体が一緒に祈ってくれているような気がしています。手術が終わって、なかなか大変な日々が続いたある日、孫を連れて愛知県民の森に祈りに行きました。そうしたら、一本の木がうめいて、家内のために祈ってくれているような気がしました。
 そこには、手術を受けてお腹が割れているような木があって、この木はきっとうめいているのに違いないと思い、その場所で祈りました。被造物全体のうめきがキリストのからだに加えられる時、事態は、大いなる勝利へと向かいます。
「人のうめき・苦しみ、被造物のうめき・苦しみ、そして、聖霊のうめき・苦しみが一つになる」時に、「圧倒的な勝利者」になるとローマ人への手紙八章において、パウロは語っています。

「神の愛」と一口で言いますが、そもそも愛とは何なのか?
昨日も結婚式の中で少しこのことについて、語らせていただきました。「愛」は最も大切であると聖書は告げています。
『こういうわけでいつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番優れているのは愛です。』とあります。やがて神の国が訪れる時、信仰は要らなくなります。なぜなら信仰は現実になるからです。希望も達成されますから、要らなくなります。それで、神の国にまで残るのは「愛」だけだと言うわけです。

日本語での「愛」には、神の愛も、人の愛も、全ての種類の愛が入ってしまいます。日本語で愛を区別することは難しいです。新約聖書は、ギリシャ語で記されました。ギリシャ語では愛を四つに区分し、表現しています。
真実の愛は「アガペー」という単語が使われています。家族愛は「ストルゲー」。そして、男女の愛は「エロース」、エロとかという言葉を日本人はよく使いますが、ギリシャ語です。
そして「フィリア」、これは隣人愛です。
二番から四番目までの愛は、相手に何らかのメリットがあるがゆえの愛です。「家族愛」は、子どもたちのためならば、両親は命を捨ててもいい!という気持ちがあります。しかし他人の子どものためには命は捨てません。やっぱり、メリットがあるわけです。
聖書が告げる愛は、アガペーの愛です。真実の愛だけを愛としています。イエスさまが十字架の上で表した愛は、アガペーの愛です。何の取り柄もない、何のメリットもない、罪を犯して離れていった人類と、一緒に堕落した被造物を贖うために、神の子が命をかけてくれた。この無条件の愛がアガペーであり、この愛を結婚生活の中心としなければいけないと、昨日もお話しさせていただきました。
コリント人への手紙第一の十三章は愛の章です。ここに、

『愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、』

と続いています、十三章の「愛」とは、ギリシャ語では「アガペー、真実の愛」が使われています。最初に『愛は寛容であり』とあります。昨日の結婚式でも「寛容」という言葉について学びました。「アガペーは寛容だ」と語っています。「寛容」とは、「心が広くて他人の言動をよく受け入れる事」という意味です。
しかし聖書翻訳は、すべて原文の意味を忠実に反映しているとは限りません。特に「寛容」という言葉は、本来、聖書翻訳に使ってはいけない単語です。
調べてみますと、寛容の原点は、「特定の宗教、宗派、その信仰内容・形式を排除せずに受け入れる事」という意味であるからです。寛容とは、キリスト教信仰とは、全く相反した用語です。偶像礼拝だろうがなんだろうが、受け入れろというのが、寛容の原点にある意味らしいのです。本来は、「アガペーは寛容だ」と訳してはいけないのです。

英語のニューインターナショナルバージョンでは、「Love is patient」と訳しています。「patient」とは、「我慢」です。結婚したら、お互いに我慢大会の始まりです。我慢することは、神の愛、アガペーを表しているのです。
キリストのからだの中では、多種多様の方々が集まりますから、時には我慢も必要です。しかしこれが、神の愛を表すということを、知っていただきたいです。

聖書の中で古い訳の一つである「King James Version」これは、十七世紀初頭にできたものですが、アガペーを「チャリティー」と訳しています。チャリティーと言ったら、チャリティーコンサートみたいな、慈善という意味ですよね。チャリティーとは、ラテン語で「愛」という意味だそうですが、「Charity suffereth long」という文を、Google翻訳にかけてみたら面白い翻訳が出ました。
「慈善団体は長く苦しみます。」

結婚生活も長引きますと、お互いに慈善団体みたいになる事もあります。病気の妻の介護も大変です。長く苦しみながら介護したり、助ける事は、苦しみですが、イコール神の愛を実現する事に他なりません。アガペーの実現であるのです。「長い間、私は両親の介護で疲れています。」という方もおられるかもしれません。また長く続く問題で、他人の問題で苦しんでいますという方もおられるかもしれません。しかし、それが神の愛の実現なのです。愛とは、長く苦しむことであると言うのです。
私も二年以上にわたって、家内のことで苦しみがあります。また、コロナ問題も重なってストレスがあります。それも長い期間にわたる苦しみです。しかしこの期間こそ、神の愛の実現なんだ、ということに気づかされました。
教会とは、苦しみの帯によって、うめきが生まれ、聖霊さまも共にうめいてくださって、すべての事が働いて益となり、最終的に「圧倒的勝利」に繋がるとローマ人への手紙八章で約束されています。

聖書の教える真実の愛とは、「誰かのために苦しむこと」と定義ができると思います。とりなしの祈りは、自分以外の人たちの問題に関わり、苦しみ、うめき祈ることです。苦しみが長く続くかもしれませんが、それが神の愛の体験です。パウロもそのことを実体験から語っています。
コロサイ人への手紙二章一〜二節、

『あなたがたとラオデキヤの人たちと、そのほか直接私の顔を見たことのない人たちのためにも、私がどんなに苦闘しているか、知ってほしいと思います。それは、この人たちが心に励ましを受け、愛によって結び合わされ、理解をもって豊かな全き確信に達し、神の奥義であるキリストを真に知るようになるためです。』

パウロは顔を見たこともない人たちのために、苦闘していることを知ってほしい、と書き送っています。これにより神の愛の帯によって結ばれると語っています。
この二年の間、私の家内のためにも、また、滝元家のためにもお祈りくださり、長く苦しんでくださっていることを、心から感謝致します。これが教会の中に、愛の帯として結ばれ、神の奥義であるイエスさまについて深く知ることにつながりますよう、心から願っています。
詩篇一一九篇で、詩篇の記者は次のように語っています。

『苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。あなたの御口のおしえは、私にとって幾千の金銀にまさるものです。』

『苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。』と告白できたら幸いですね。どんなに金持ちになるよりも幸せだというのです。
なぜなら、神のおきてを学ぶことができたと言うのです。深い真理は、苦しみの中からしか、学ぶことができないのかも知れません。
イエスさまも地上に来られて、父なる神さまのみこころを、十字架の苦しみによって悟り、耐え抜いた結果として、圧倒的な勝利者として、よみがえってくださいました。
時に教会の中にも、様々な苦しみや、悲しみがありますけれど、それらを通して、私たちも圧倒的な勝利者としてくださると信じます。

2022年1月
 1
2345678
9101112131415
16171819202122
23242526272829
3031  
カテゴリー
最近の投稿