「70 年が満ちた2021 回復と再建の年!~永遠のいのちを得る為にパート2~」

2021年8月1日(日)新城教会主任牧師 滝元順

ルカの福音書10章25〜28節

『すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスをためそうとして言った。「先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」イエスは言われた。「律法には、何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」すると彼は答えて言った。「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ』、また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』とあります。」イエスは言われた。「そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」』

皆さん、おはようございます。ハレルヤ!陽子さんの素晴らしい賛美に感謝します。歌を聴きながら、いろいろな情景が浮かんできたのですが、早いもので、八月に入ってしまいました。あっという間だなぁと思うのですが、私も、皆さんの祈りに支えられて、ここまで頑張ることができ、心から感謝をしています。
家内のために祈っていただき、感謝いたします。元気にしております。しかしまだ治療が続いていますので、お祈りいただきたいと思います。今週の水曜日にも、抗がん剤の治療があります。なかなか大変ですけれど、皆さんの祈りに支えられて、これといった副作用もなく、よく食べて、最近、七キロも太ってしまいました。ある人が、「そんなの癌患者じゃない。」と言っていたみたいです。本当に主が奇跡を現してくださっていることを、心から感謝します。

前回この場所で、「永遠のいのちを得るために」というタイトルのメッセージを語らせていただきました。本日も、同じ箇所を引用させていただいているのですが、「ヘブンズ・アイスクリーム&コーヒー」が開店したことによって、ある人と六十年ぶりに出会い、そこから素晴らしい和解を体験したという証しをさせていただきました。
先日、六十年前の写真をいただきました。教会の前で撮られた写真です。
子ども会か何かの後で撮られた写真だと思われますが、この付近もだいぶ変わりました。私がどこに写っているのか分かりますか?おへそを出している少年と、殿様みたいなお兄さんの上にいるのが私です。あっという間に人生って移り変わっていきます。主イエスさまと共に、ここまでくることができたことを、心から感謝します。

クリスチャンとして、最も大切なことは、突き詰めれば、どこにあるのでしょうか。聖書には広範囲の教えがあります。しかし前回もお話ししましたように、凝縮すれば、「あなたの神である主を愛する。」そして、「あなたの隣人をあなた自身のように愛する。」の二つになります。これを実行したら、永遠のいのちを得るのです。

同じ内容が、マルコの福音書十二章に述べられています。十二章三十三節、

『主を愛すること、また隣人を自分自身のように愛することは、どんな全焼の献げ物やいけにえよりも、はるかにすぐれています。』

旧約時代には、生け贄を神にささげていたのですが、神を愛することと、隣人を自分自身のように愛することの方が、生け贄よりはるかに重要だと言うのです。この答えに対してイエスさまは、『あなたは神の国から遠くない。』と語られました。私たちのゴールは、「神の国」です。イエスさまが帰って来られるその日、永遠のいのちは本格的に始まります。
私たちは、神の国の到来のために働いています。そのために重要な項目が「神を愛すること」と、「隣人を自分自身のように愛する」という、二つだと言うのです。
ところで皆さん、イエスさまを愛しておられますか?「アーメン!」ちょっと第一部よりも少し・・?いや、同じくらいですかね。私たちの神、主イエスさまを愛しておられますか?「アーメン!」インターネットの皆様もアーメン!と宣言してくださいね。そうならば、私たちは隣人を愛すべきです。

前回もお話ししましたように、神を愛することと、隣人を愛する事とは、コインの裏・表みたいです。「神を愛する」と記されたコインを見たならば、裏面には「隣人を愛する」と記されています。この二つは、切り離すことはできません。そしてこれが「永遠のいのち」、すなわち、「神の国」に繋がるのです。

前々回、「ガド族とルベン族」についてお話しさせていただきました。イスラエル十二部族が、「さぁ!ヨルダン川を渡って、カナンの地に攻め入るぞ!」と士気を高めていた只中で、この二部族が来て、「私たちはヨルダン川を渡りたくない。」と言い、戦いに参加しない旨をモーセに申し出ました。
その時、モーセは大変怒って、「もしも戦いに参加しなかったら、その罪はお前たちの上にのぞむ!」と告げました。それでこの二部族も共に戦いに加わり、十二部族はこぞってカナンの地を攻めました。
カナンの地を攻める直前、神はみ言葉を告げました。それが民数記三十三章に出ています。民数記のテーマ的は、「自主的に神を愛する」というテーマです。強制されて愛することはできません。好きな子がいたら首を締めて、「俺を愛せよ。」ということはありえないです。愛は自主的なものです。
民数記は、「神を自主的に愛する」というテーマが中心にあります。そんな背景で、五十〜五十二節を読んでみます。

『エリコをのぞむヨルダン川のほとりのモアブの草原で、主はモーセに告げられた。「イスラエルの子らに告げよ。あなたがたがヨルダン川を渡ってカナンの地に入るときには、その地の住民をことごとくあなたがたの前から追い払って、彼らの石像をすべて粉砕し、彼らの鋳像をすべて粉砕し、彼らの高き所をすべて打ち壊さなければならない。』

私がメッセージを準備する際、よく参考にさせていただいている神学者の先生のブログがあります。その方がこの箇所を次のように解釈していました。五十二節には三つの動詞、「追い払う」「粉砕する」「打ち壊す」という、破壊をもたらす動詞が出て来ますが、これらは民数記の得愛用語だというのです。
民数記は、神を主体的に愛するテーマであり、「神を愛することと、他の神々を追い払い、粉砕し、根絶やしにすることは同義である。」と説明していました。「神を愛すること」=「偶像の破壊」であると言うのです。
しかし当時は、偶像だけを一掃するだけでなく、偶像礼拝者もセットで一掃しなければなりませんでした。旧約聖書を見ると、血生臭い歴史があります。「聖絶」と言って、偶像礼拝者たちも皆殺しにしました。なぜ、殺されなければならないのか?という疑問が残ります。なぜかと言うと、偶像だけ壊しても、偶像礼拝者を残しておいたら、また、彼らは偶像を作ります。ゆえにセットで根絶やしにすることが必要だったわけです。それが、神を愛することとイコールだと言うわけです。
どうですか。この教えと、「隣人を愛する」事がイコールで結ばれますか?ここには大きな「矛盾」があります。
先日、小学校四年生の孫と会話をしていたら、どんなテーマであったのかは忘れたのですが、「じーじ、それは矛盾している。」と言われました。小学四年生が、そんな用語を使ったので、「なぜ、そんな難しい言葉を知っているの?」と聞くと、「学校で習った。」と言うのです。それで、「矛盾という意味を教えて。」と聞くと、彼がこう説明してくれました。
「何でも打ち壊すことができるハンマーを買ってきた。また、どんなハンマーで叩いても割れないガラスを買ってきた。それは矛盾だ。」と言いました。なかなかうまい説明をしたので、「自分で考えたの?」と聞くと、「違う。先生がそう説明してくれた。」と言っていました。
「神を愛すること」と「隣人を愛する」ことがイコールならば、偶像の破壊と共に人も殺されたら、大きな矛盾が残ります。隣人を愛すると言うなら、人を殺すなと言いたくなります。結構、聖書って、難しいですよね。こういう矛盾を解き明かさないと、結局、「隣人を愛する」という真の意味に到達できません。そうなると、神の国はなかなか到来しないことになります。
隣人を愛するとは、「お隣の人を愛しますよ〜」というより、もっと深い意味があることがわかります。

聖書の中心は「イエス・キリスト」です。前回もお話ししましたように、「イエスはファーストネームで「キリスト」は苗字ではありません。「キリスト」とは「メシヤ、救い主」という意味です。イエスさまは救い主としてこの地にこられました。
イエスさまは、どのような領域の救い主として来られたのでしょうか。それは、一見矛盾のように見える領域からの救い主として、この地に来られたのです。
ルカの福音書十章は、良きサマリヤ人のストーリーを含む有名な箇所です。しかし十章に至るまでの文脈、コンテキストを気にして読みますと、「隣人を愛する」ということに関するプロセスを理解できます。そのような視点で、ルカの福音書八章、九章、十章を通しで読んでいただきたいと思います。

そこまでの推移をまとめたのですが、
「ルカの福音書八章でイエスはゲラサに行き、「悪霊、レギオン」を追い出し、墓場に住む男を癒された。九章では、すべての悪霊を追い出し、病気を治す権威を十二弟子に授けられた。続く十章では、七十人、もしくは七十二人の弟子たちに対しても、その権威を拡大され、その後、強盗に傷つけられた旅人を解放する「良きサマリヤ人」の話をされた。」
八章の記録によりますと、イエスさまは、ゲラサに行かれました。その地はヘレニズム時代に建てられた街で、ギリシャ神話・ローマ神話の偶像で満ちていました。また、祖先崇拝も盛んであったことが知られています。墓場に住んでいた男は、偶像礼拝の結果として、悪霊に支配され、狂人のようになっていたのです。
なぜなら、偶像の背後には悪霊が存在するからです。偶像礼拝は悪霊を呼び込む行為です。その結果として、男に大きな問題が起こっていたわけです。
旧約聖書の時代ならば、どうでしょうか。父なる神を愛するイエスさまがゲラサに行った場合、その地は偶像で満ちていましたから、その地の偶像を全て打ち壊す事が、神を愛する行為のはずです。特にゲラサは、豊穣神デメテルを中心とする神々が全住民によって礼拝されていました。それらを全て壊し、悪霊に憑かれていた男は、偶像礼拝者の代表格でしたから、彼を真っ先に殺されなければ、神を愛することになりません。
しかし、イエスさまは、神を愛する神の子であるのに関わらず、そうされませんでした。偶像を破壊したわけでも、偶像礼拝者を聖絶したわけでもなく、逆に、偶像礼拝によって悪霊に支配されていた、偶像礼拝の代表格的な男を助けたのです。
ルカの福音書八章から十章までのプロセスを参考にして、旧約聖書から新約聖書に至る、「神を愛する」という概念を表にして見ました。まずは、旧約時代の「神を愛する」という概念です。それは、「神を愛すること=偶像を破壊し、異教の民を聖絶する」という事でした。
新約聖書においては、「神を愛すること=隣人を愛する」そして、偶像を破壊する事に対応して、悪霊を追い出す「霊的戦い」が加わっている事が分かります。それが「神を愛する」ことであるとルカは述べているわけです。旧約時代、悪霊を追い出すためには、偶像を壊すと共に、偶像を拝んでいる人たちをも一掃しないと、悪霊どもは出て行きませんでした。しかし天の権威と共に来られたイエスさまによって、偶像があっても、偶像礼拝をしている人たちでも、諸悪の根源の悪霊だけを追い払い、一掃し、根絶やしにすることが可能になったわけです。
その結果として、罪人でも神に愛され、受け入れられ、いやされるようになったわけです。ゲラサにおいて解放された男は、まさに、その代表格となったわけです。
イエスさまは、ルカの福音書八章で、悪霊との戦いはどのようなものかを、実際に弟子たちにデモンストレーションされ、続く九章、十章において、十二弟子、七十人の弟子たちにご自分が持っておられる権威を分与されたのです。それは、実に、旧約時代の預言者たちが待ち望んでいた事柄でした。ルカの福音書10 章24 節

『あなたがたに言いますが、多くの預言者や王たちがあなたがたの見ていることを見たいと願ったのに、見られなかったのです。また、あなたがたの聞いていることを聞きたいと願ったのに、聞けなかったのです。」』

それはイエス・キリストによってもたらされた、恵みの時代の到来そのものでした。この恵みの時代、イエス・キリストによって、どのような偶像があったとしても、偶像礼拝があったとしても、人は罪赦されて救われるのです。イエスさまが特に関心を持たれたのは、サマリヤ地方と、デカポリス地方であったのを、福音書から知ることができます。この地域は歴史的にどのような地域かと言いますと、元々、北イスラエルでした。

私たちは日々、様々な選択をしますが、それは本当に難しい事です。よく祈って選択しないといけないことがわかります。なぜなら日々の選択は、未来の新しい世代にも大きく影響を与えるものだからです。

先にも少し触れましたが、ガド族とルベン族の人たちは、自分たちの新しい世代のために、最も適していると思われた領地を手に入れました。モーセに頼み込んで、ヨルダン川の東側を手に入れたわけです。
しかし歴史は進み、それから千四百年後、イエスさまの時代、その地域はどのようになっていたのでしょうか。ガド族とルベン族の地は、「デカポリス」と呼ばれる異教の地となっていました。二つの民族は跡形もなくなっていたわけです。現代も、ヨルダン川の東側地域は、イスラエル領ではありません。ヨルダン王国に属しています。ヨルダン川の西側はかつてのサマリヤ地方です。そこは、「パレスチナ自治区」と呼ばれ、かろうじてイスラエル領内に含まれています。このように、良かれと思った選択が、未来を苦しめることにもなりかねません。神のみこころを第一に求めて、欲に駆られて選択しないようにしなければならないことを教えられます。

イエスさまはサマリヤ地方に強い関心を持たれ、何度もその地に行かれました。そして、そこにリバイバルが起こったと記録されています。ルカ十章においては、サマリヤ人を題材に、有名な「良きサマリヤ人の例え」を話されました。

エルサレムからエリコに下る道の途中で、一人の旅人が強盗に襲われて倒れていました。倒れていた人は、たぶんユダヤ人であったと思われます。この道を境に、ユダヤ人居住区、サマリヤ人居住区と分かれていました。二つの民族が道路を境界線として、住んでいたのです。しかしこの道は、両民族にとって、共有の道でした。民族とは、過去に仲が悪かった結果として形成されるものです。
倒れていた旅人を確認したら、ユダヤ人だったわけです。サマリヤ人にとって、敵方が倒れていたわけです。普通ならば、「やったー!」と喜ぶはずです。また、逆も真なりです。普通、敵方が倒れていたら、喜んで、側を通り過ぎるはずです。
しかしこのストーリーでは、サマリヤ人の敵が倒れていたのにも関わらず、サマリヤ人は、とことん敵であるユダヤ人を助けたのです。同胞の祭司とレビ人は、見ないふりをして通り過ぎたのです。しかし助けたのは、敵方のサマリヤ人だったわけです。
そして、隣人とは、敵方を愛し受け入れ、介抱することであると教えられたのです。サマリヤ人のようになることが、「隣人を愛する」こととして、示されたのです。
もしも自分が倒れていたとしたら、助けてほしいと思うはずです。だから「あなた自身のように隣人を愛せよ」というわけです。私たちも、敵が倒れたら喜ぶのではなく、介抱する者になりたいと願います。
イエスさまの時代に、ユダヤ人とサマリヤ人が、お互いにどのくらいの敵対関係であったのかを歴史的に知ると、このストーリーの理解は、さらに深くなります。聖書は、紀元前四世紀から紀元前一世紀までの間については、何も語っていません。この時代を「中間時代」と呼んで、その間のことを知るには、世界史の資料を見るしかありません。

実はイエスさまがお生まれになる、百二十八年前(紀元前二世紀)ですが、ハスモン朝という、ユダヤ王朝ができました。その王、ヨハネ・ヒルカノス一世は、隣に住んでいるサマリヤ人たちの地域に攻め込んで、彼らの神殿を破壊し、大勢のサマリヤ人たちを虐殺しました。それはイエスさまがお生まれになる、百年少し前の話しです。
この歴史を知るとき、イエスさまの時代の両民族の感情を推測できます。サマリヤ人にとって、ユダヤ人は最悪です。自分たちの神殿を壊し、仲間を殺したのですから。またユダヤ人たちはそれほどまで、サマリヤ人たちを憎んでいたのです。両者の緊張状態は半端じゃなかったはずです。
このような歴史的事実を知る時、隣人を愛するというテーマは、生やさしいものではないことが分かります。現代人はヒューマニズム的に、簡単に考えますけれど、かなり根深い民族対立を含んだテーマであるのです。
当時、ユダヤ人もサマリヤ人も、同じ神を信じ、礼拝していました。旧約聖書に出てくる、天地宇宙を造られた、唯一の神です。違うところは、礼拝の場所だけでした。サマリヤの女とイエスさまの会話の中で、それが分かります。彼女は「どちらが、本物の礼拝所ですか?」と聞いています。「エルサレムですか?それとも、ゲリジム山ですか?」と聞いています。サマリヤ人たちは、ゲリジム山に礼拝所を設けて、礼拝していたのです。しかしユダヤ人たちはサマリヤ人にとって、最も神聖で、重要な場所に攻め込んで、破壊し、殺したのです。これは、私がその場に行って実際に撮った写真です。
神殿が壊されているのが分かります。今でも、サマリヤ人たちは、サマリヤ教団を維持して、昔ながらの礼拝を行っています。彼らは、ユダヤ教徒よりもずっと律法に厳格です。彼らは今でも生贄をささげています。「大祭司」という人もいます。私は大祭司に会ってきました。ヘブル語の新約聖書を持って行って贈呈しました。私は、「この中にあなたたちのことが、書いてありますよ。」と言いました。「イエスさまはあなたたちのこと、良い人だと言ってますよ!是非読んでください!」と言ったら、喜んで受け取ってくれました。今頃、読んでいるかどうかは知りませんけれど、いずれにしても、イエスさまの時代の互いの感情は、半端じゃなかったわけです。