「新しい未来を切り開くために」

この「なぜ人は宇宙へ行くのか」ということで、野口さんがこの例えを話していたんですけども、「今直面している問題を別の次元で見てみると、新しい視点が与えられて、抜け道が見えて、また突破口が開けてくる。地球の問題は宇宙という別の次元から見ることによって、違う考え方、新しい考え方、新しい視点を持って解決方法を探り出すことができる、だから人は宇宙へ行くんですよ。」

そんなことが綴られていました。その話を読む中で、ふと思わされたのですが、私たちがみことばを受け取り、信頼し、みことばに生きるということは、ある意味、その神さまのみことばの中にある神の国の常識や世界観、価値観、また神の国の視点、そしてまた神さまの次元を受け入れることではないかなと思います。もうそれは人間の住む次元の中で私たちが到底完全に理解することは不可能なものなのですが、それらを全て受け取って従っていくことが、みことばに生きるということだということを、ふと思わされました。
私たちは一次元でもなく、二次元でもなく、三次元でもなく、また遥か彼方の宇宙の果ての次元に立つものでもなく、私たちは神の国の中、神の次元に生きる者とされているということを覚えていきたいと思います。
そして神さまご自身はこの全宇宙を創造され、また全宇宙を見渡すことのできる方です。この大宇宙の中に、この地球、またすべての被造物、この命を与えてくださった神さまは、その一つ一つの命に、神の作品とされた私たち一人ひとりに目を留めておられ、そして神さまのことばを語ってくださっています。神さまのことばを私たちに預けてくださっているんですね。そのみことばを私たちは受け取って、そのみことばに生きる者とされていきたいと思います。その時に、神さまの次元の中で神さまの方法によって、新しい視点、抜け道、突破口が与えられ、神さまのみわざが私たちを通して現され、問題が解決し、神さまご自身によって私たちの未来が切り開かれていく、そんな神さまからの語りかけを受け、今私自身励まされております。

最初にお祝いしましたが、今日から聖書の暦では新年ということです。新城教会において宣教七十年が満ちる年に入っているということですね。新城教会の始まりは、明先生ご夫妻の郷里伝道から始まりましたね。明先生が郷里に帰り、仕事を探していましたけども、決まっていた仕事も断られて、もう途方にくれましたね。失意のどん底、暗闇のどん底、ナアマン将軍と同じような心境であったかもしれません。そのような状況の中で明先生は、神さまのみ前に一人で出て、お祈りしましたね。その時に神さまからのみことばを受け取ったとよく語られておりましたけれども、それはヘブル人への手紙十三章五節、

『わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。』

何もないようなところからのスタートでしたが、神さまがこのみことばを語ってくださり、またこの神さまのことばを預けてくださって、それを受け取った明先生は、この約束を信じて握り続けて、このみことばに従い続けた故に、今の新城教会があると思います。
またこの新城教会の先生方や、信仰の先輩・兄妹姉妹が、本当に神さまのみことばを信じて離れず、約束を握り続け、祈り続け、涙を流すような困難な時を通る時があったと思いますけども、みことばに生きたゆえに今の新城教会がある。そう言ってもいいのではないでしょうか。
聖書のみことば、また神さまから直接語られることばもあるかと思います。そのことばを私たちは受け取り、従っていく時に、私たちではなく、神さまご自身がみわざを現し、新しい未来を切り開いていってくださる。そのことを今日、皆さんで覚えていきたいと思います。

もう一度、ナアマン将軍の癒しのストーリーに戻りたいと思いますけども、このナアマン将軍の癒しのみわざは、何がきっかけで始まったのでしょうか。それはこの若い娘の言葉でしたよね。「もしご主人様がサマリアにいる預言者の所に行かれたら、きっとあの方がご主人様のツァラアトを治してくださるでしょうに。」と語ったんですよね。
先ほども申しましたけども、この娘は北イスラエルから連れて来られた使用人、奴隷のような存在でした。アラムの国、異国の地に連れて来られ、異なった文化や習慣、また異教の神々が崇拝されるような地、また周りは異なった民族、そしてアラムは敵だったわけですから、敵の真っ只中。ある意味、暗闇の真っただ中のような地において生活していたわけですね。
そんな地において、「私のいた北イスラエル、イスラエルの神さま、その神さまに仕える預言者なら、あなたの病を癒してくださるでしょう。」そんなことを語ったんですけども、もしもナアマン将軍が癒されなかったら、この娘はどうなったでしょうか。もしかして殺されてしまうかもしれない。そのような危険もあったにも関わらず、「私の信じる神が癒してくださるでしょうに。」と告白した中に、若い娘のその神さまに対する信頼と信仰を見ることができるのではないでしょうか。
この若い娘というのは、英語で「young girl」と書かれてあります。若い少女ですね。そしてこの「young」というのは、ヘブル語、原語で見ていくと、「若い」とか「小さい」という意味もありますが、もう一つは、「重要でない」というような意味合いがあるそうです。この使用人であった少女、その神さまに対する信頼、信仰告白、宣言が、この神さまの素晴らしいみわざをもたらしました。私たちが、私には力がない弱い存在だと思っても、神さまご自身がその信仰告白、宣言を受け取ってくださって、素晴らしい奇蹟のみわざを現してくだることを覚えていきたいと思います。
このナアマン将軍は幼い子どものような身体になったということですけが、幼い子どもは「young boy」という、英語の訳があります。この「young」も同じ意味合いですね。「重要でない」、そんな意味合いがあります。若い少年であります。ナアマン将軍は、将軍という高い地位にありましたけが、少年のような身体になった。もう高い地位ではない、ということですね。ナアマン将軍はある意味、神さまご自身によってこの肉体も癒されて、また人の与える地位にも関係なく、神さまによって、新しく、全人格的に癒されて、贖われた、回復されたということじゃないですかね。
このyoung girlからyoung boyへと、神さまの鮮やかなみわざが現されたわけです。その弱い力がない、重要とされない若い娘の言葉、主に信頼する信仰告白、その宣言が、主の鮮やか奇蹟のみわざを現す突破口となる事をここから神さまから私自身教えられております。

その娘は、暗闇の真っただ中のようなところで宣言をしたわけですけども、私たちはどこで宣言するのかということを少し考えていきたいと思います。エペソ人への手紙二章六節をお読みします。

『キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。』

とあります。私たちは今の新約時代、十字架の贖いによって、この地上にあってもこの天の所に、イエスさまが座っている所に今この時にも座らせていただける、そのような恵みにあると言うのです。

そしてまた、私たちがどのような存在であるかということを、第一ペテロ二章九節から見ていきたいと思います。

『しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。』

とあります。私たちはこの地上にあっても、十字架の贖いにより、神の国の民とされ、イエスさまと共に天の所に座す者とされています。そして私たちは王として、また祭司として、神さまに仕え、この主の十字架の勝利、贖い、福音を宣べ伝える者とされています。
この「宣べ伝える」という言葉は、英語の訳では、「proclaim」とか、「declare」という言葉が使われていますが、原語でも同じような言葉が使われています。「公に言い広める」ということですが、同時に「宣言する」という意味があります。
私たちはこの地上にあって、地において、また天において、このイエスさまの福音、大勝利を、十字架の贖いを宣言する王として、祭司として、宣言していく役割が与えられている。この新約時代という、イエス・キリストの十字架の素晴らしい恵みと特権に預かっているということを今日覚えていきたいと思います。

新しい年に入って、この新城教会においても、宣教七十年が満ちて、いよいよ将来と希望が与えられる年、そして回復と再建が神さまによって与えられていく、そんな神さまのときを迎えております。しかし、この回復と再建に対して、この地において激しい戦いがあることを覚えるような時を私たちは過ごしています。この七十年が満ちる頃、将来と希望を与えるということですが、聖書の中において、この「七十年が満ちる頃」は、ユダの民がバビロンに捕らえられて奴隷として捕らえられていました。しかし、七十年の満ちる頃にバビロンから解放されて、この生まれ故郷、このエルサレム、イスラエルに帰還する、その約束が果たされていくという約束であります。聖書の中で、神さまの約束通りに七十年の満ちる頃に将来と希望が与えられて、ユダの民が帰還していきましたね。最初に帰還したユダの民たちは、大祭司ヨシュアなどをリーダーとしてエルサレムに帰還しました。
そして帰還してすぐに、廃墟となってエルサレム、神の宮である神殿を建て直し始めました。回復と再建の始まりでした。
しかしその神殿再建を始めてまもなくその再建はストップしてしまうわけです。なぜかというと、その地域に残っていた民や、また外国から連れて来られた民やサマリア人という人々の妨害に合い、この神殿再建計画がなんと十八年間止まってしまったということなんですね。
そのような状況の中で、神さまがユダの民を励ますために、多くの預言者を通して、神さまのみことばを語ってくださったことが聖書の中に書かれてあります。その神さまの励ましを受け取った預言者の一人で、ゼカリヤという人物がいましたが、この神殿再建が地上でストップしていた中に、天においてはどのような霊的な状況であったかということを神さまから幻を見せられて語っている場所があります。それがゼカリヤ書の三章になります。
このゼカリヤ書の三章で、大祭司ヨシュアが天の法廷と呼ばれる、天の裁判所に立っていて、汚れた服を着ているのです。そしてサタンに訴えられていました。サタンから攻撃を受けていました。そこにゼカリヤも一緒に居合わせるのですが、神さまご自身が弁護人となって、その大祭司ヨシュアを弁護し、そして彼の服を着替えさせるようにと言って、彼の汚れた服を着替えさせてくれるんですね。ゼカリヤ書三章四節、

『御使いは、自分の前に立っている者たちに答えてこう言った。「彼のよごれた服を脱がせよ。」そして彼はヨシュアに言った。「見よ。わたしは、あなたの不義を除いた。あなたに礼服を着せよう。」』

この大祭司ヨシュア、このユダの民のリーダーに、汚れた服を着替えさせて、新しい祭司としての服を着せてあげるんですね。
しかしその四節から五節に移る時に、こう続いていきます。

『私は言った。「彼の頭に、きよいターバンをかぶらせなければなりません。」』

と、『私は言った。』とゼカリヤが発言するのです。「この祭司の被り物であるターバンも被らせなければなりません。」と発言するわけです。ここから天の法廷においての発言、また宣言をゼカリヤがしていたということを見ることができます。
私たちの戦いは、究極的な主の弁護によって勝利していくわけですけども、同時に私たち自身もこの地において、この天に座す者として、そしてまた王として、祭司としての役割を担って、また天において、天の法廷で必要なことばを宣言し、戦うことができる、その仕事を委ねられた者であるということをここから覚えさせられます。

この大祭司ヨシュア、ユダの民のリーダーでしたけども、この回復と再建という中にあって、霊的な領域において大きな戦いがありました。大祭司、リーダーが攻撃されていました。これから回復と再建のみわざを私たちが受け取っていく季節ですけれども、この時期に私たちがリーダーのために真剣に祈って戦っていくことは、回復と再建を受け取るために、とても大切なことではないかと思わされます。
新城教会の先生方、リーダーの方々、様々な困難な中にあり、今、このキリストのからだ全体で戦っておりますけども、この回復と再建を受け取るために、本当に真剣に祈って、この回復と再建、神さまのみこころを受け取っていきたいと、そんな風に願わされます。