「弱さを知るときに働く神の恵み」

ヘブル人への手紙十三章六〜八節に、このようなみことばがあります。

 

『ですから、私たちは確信をもって言います。「主は私の助け手。私は恐れない。人が私に何ができるだろうか。」神のことばをあなたがたに話した指導者たちのことを、覚えていなさい。彼らの生き方から生まれたものをよく見て、その信仰に倣いなさい。イエス・キリストは、昨日も今日も、とこしえに変わることがありません。』

 

皆さんの信じている神さま イエスさまは、「過去も、現在も、未来もすべて知っておられ、いつまでも変わることがない、偉大な神さまである」ということを覚えてください。

 

そしてもう一つ、ペテロが失敗したのは、人としてこの世に来てくださったイエス・キリストしか見ていなかったということではないでしょうか。

マタイによる福音書十六章二十〜二十三節に、このようにあります。

 

『そのときイエスは弟子たちに、ご自分がキリストであることをだれにも言ってはならない、と命じられた。そのときからイエスは、ご自分がエルサレムに行って、長老たち、祭司長たち、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、三日目によみがえらなければならないことを、弟子たちに示し始められた。すると、ペテロはイエスをわきにお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあなたに起こるはずがありません。」しかし、イエスは振り向いてペテロに言われた。「下がれ、サタン。あなたは、わたしをつまずかせるものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」』

 

ペテロをはじめ弟子たちは皆、イエスさまと共にいて癒しを見、奇跡を見てきました。そしてイエスさまが行く所にはどこでも、群衆が押し寄せてきました。その時、彼らには優越感があったと思います。「私はキリストの弟子だよ。この方について行ったら、絶対間違いはない。この方は、いずれ国を再興し、国のトップに立つ人だ!」と、ある意味では期待をしていたわけです。

でもそんなイエスさまが十字架にかかって殺されるという話を聞いた時、彼らは動揺したと思います。しかしその一方で、今までの奇跡や癒しを見て、イエスさまにかぎって、「そんなことがあなたに起こるはずがありません」 と言ったのです。

皆さんはいかがですか? 『神にとって不可能なことは一つもない』という有名なみことば。皆さんもよくご存じで、信じていらっしゃると思います。でも、時にイエスさまの力を、「これぐらいは祈ったら聞かれるだろう。でもこれは無理かもしれない。こんなわがままなことを神さまにお願いしたら…」というように、自分で神さまの力を、大きさを、決めてしまっているようなことはないでしょうか。

ペテロはイエスさまに、「あなたはわたしを何だと思いますか?」と質問された時、「あなたは生ける神の子、キリストです」と断言して信じていいました。にもかかわらず、自分に危険が迫った時には、動揺し、失敗しました。この時点では、イエスさまを、人間として見ていただけで、イエスさまが死ぬこともよみがえることもかんがえもせず、全能なる神の子としての主を見上げることができていなかったのです。これが彼の最大の失敗であり、大きな痛手を負うことになったわけです。

 

ではそんな、ある意味ではどん底のペテロが、もう何にもなく一人ぼっちというような状況の中で、なぜここから再び立ち上がることができたのでしょうか。それは、イエスさまの愛に触れたからです。先日の木曜賛美集会で陽介さんも開いていましたが、ルカによる福音書二十二章三十二節をお読みします。

 

『しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。』

 

イエスさまは、ご自分が十字架にかかるということが決まっている中で、ペテロの弱さを知っておられ、『あなたの信仰がなくならないように祈りました』と言われました。その言葉を言われた時はまだ、「あなたとご一緒なら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております」とペテロは答えていました。しかし、さらにイエスさまはペテロに『今日、鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います』と言われたのです。

そのことばどおり、イエスさまが連行された時、ペテロは、「わたしは知らない」と三度イエスさまを否んだのです。そして、彼は自分の失敗に気づきました。

 

ルカの福音書二十二章六十〜六十二節を見ますと、このようにあります。

 

『しかしペテロは、「あなたの言っていることは分からない」と言った。するとすぐ、彼がまだ話しているうちに、鶏が鳴いた。主は振り向いてペテロを見つめられた。ペテロは、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います」と言われた主のことばを思い出した。そして、外に出て行って、激しく泣いた。』

 

この時、きっとペテロは「あなたのために祈っているよ」と言われたことばも思い出したことでしょう。そしてここに、主が振り向いてペテロを見つめられたことが書かれています。イエスさまはペテロと一瞬だけ振り向いて目を合わせられたのです。この「見つめる」ということばは、ギリシャ語では「エンブレポー」と言い、「注視する、目を向ける」という意味があるそうです。つまり、物理的に単に「見た」ということではなく、神さまが深い愛情をもって、彼を「見つめた」ということです。裏切ったペテロを裁くのではなく、見捨てるのでもなく、ただただ愛の眼差しを持って、このペテロを見つめられたということです。それで、激しく泣いて後悔していたペテロは、神としてのイエスさまの深い愛を知り、再び主に従おうと決心したのだと思います。もう一度立ち上がり、主のために働くための大きな力となったに違いありません。

 

ギデオンもペテロも、弱さのゆえに失敗しました。しかし、ただ失敗しただけでなく、その後、神さまに用いられました。失敗をしないという人は誰もいないと思います。しかしその失敗をどのように受け止めるか、それをどのように次につなげていくかということが、すごく重要なことでもあります。

もしかしたら神さまは、クリスチャンたちの信仰を成長させるために、「失敗する」というプログラムを組み込まれているのかもしれません。その失敗を経験し、その上でイエスさまに頼り、強められてイエスさまに従っていくことを、教えようとされているのかもしれません。

 

ヨハネの福音書二十一章十七節には、このように書かれています

 

『イエスは三度目もペテロに、「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛していますか」と言われた。ペテロは、イエスが三度目も「あなたはわたしを愛していますか」と言われたので、心を痛めてイエスに言った。「主よ、あなたはすべてをご存じです。あなたは、私があなたを愛していることを知っておられます。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を飼いなさい。』

 

これは、イエスさまが十字架にかかり、葬られ、三日目によみがえられ、弟子たちや多くの人々に、姿を現された時、ペテロに「わたしを愛していますか」と尋ねられました。この時、弱かったペテロの再献身の姿を見ることができます。

 

さらに、大失敗をしたペテロは力強い働きをします。それは、聖霊の力を受けたからです。使徒の働きの一章八節を見ますと、

 

『しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。』

 

とあるように、彼らが聖霊の力を待ち望み二階座敷で祈り続けていた時に、突然、彼らの上に聖霊が下り、力を受けたとあります。その後、弟子たちは夢中になって主を証しし、主のみわざを行っていったのです。

使徒の働きの二章四十〜四十一節に、このようにあります。

 

『ペテロは、ほかにも多くのことばをもって証しをし、「この曲がった時代から救われなさい」と言って、彼らに勧めた。彼のことばを受け入れた人々はバプテスマを受けた。その日、三千人ほどが仲間に加えられた。』

 

この時には、これまで弱く、怯えていたペテロの姿はありませんでした。ではなぜ、この弱く失敗したとわかっているペテロを神さまは選んだのでしょうか。それはこのことばどおり、彼が弱かったからです。神さまは弱い者を選ばれた理由をはっきりと述べています。

 

『しかし神は、知恵ある者を恥じ入らせるために、この世の愚かな者を選び、強い者を恥じ入らせるために、この世の弱い者を選ばれました。有るものを無いものとするために、この世の取るに足りない者や見下されている者、すなわち無に等しい者を神は選ばれたのです。』(コリント人への手紙第一 一章二十七~二十八節)

 

この世の価値観で言ったら、弱い者が選ばれるというのはある意味では矛盾したことです。皆さんの会社でも、スポーツの世界もそうでしょう。強い者、才能が豊かな者が選ばれ、出世するのが世の常です。しかし、神さまの価値観は違います。神さまは「あえて、弱い者を選ばれる」のです。知恵ある者を恥じ入らせるために、強い者を恥じ入らせるために、神さまは弱いあなたを選ばれたということをまず覚えてください。

人間誰しも、日々たくさんの恵みを経験していると思います。そのように、事が順調に進んでいる時、成功した時に、自分が頑張ったから、自分が何かを持っているからと錯覚してしまうことがあると思います。しかし、私たちが強いから、私たちが何かを持っているからではないのです。「数えて見よ 主の恵み」という賛美がありますが、皆さんが「私は弱い者だ」と本当の意味で悟り、主の力を認めるなら、自分には何もないけれど、主が与えてくださったということに気づくことができるのではないでしょうか。

パウロもそうでした。

 

最初にお読みした第一コリント一章二十九~三十一節

 

『これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。まさしく、「誇る者は主にあって誇れ。」と書かれているとおりになるためです。』

 

ここに、「誇る者は主にあって誇れ」とあります。ペテロは弱さのゆえに、三度も「私はイエスさまのことを知らない」と否んで失敗をしました。しかしその失敗から弱さを認めました。

また、彼は肉体的な弱さを持っていました。この病が治るようにと彼は三度、主に願ったとあります。しかし第二コリント人への手紙第二 十二章九節にこうあります。

 

『しかし主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」と言われました。ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。』

 

ペテロは、主の力は弱さのうちに完全に現れると悟り、主にあって「弱さを誇りとする」者となりました。どん底まで落ちたにもかかわらず主に再献身し、大きな働きをして主の栄光を現すことができました。

 

ここまで、弱さを知り、主にあって弱さを誇る者となることをお話ししました。弱さを認めることは大事です。しかし、弱いままの丸腰では、サタンに勝つことはできません。悪魔は巧妙に私たちの心に働きかけ、「あなたは弱い」と語りかけてきます。そして誘惑するのです。皆さんも誘惑を覚えることがあると思います。毎日のように偽りがあり憎しみがある。清らかな生活をしたいのに悪習慣から離れることができず、誘惑に負けてしまう。なんて自分は弱い人間なんだろうと。誘惑に打ち勝つことはなかなか難しいです。弱いままでは、悪魔に立ち向かうことはできません。しかし、勝利する方法があります。

 

『終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。悪魔の策略に対して堅く立つことができるように、神のすべての武具を身に着けなさい。私たちの格闘は血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊に対するものです。ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、一切を成し遂げて堅く立つことができるように、神のすべての武具を取りなさい。』(エペソ人への手紙六章十〜十三節)