「手当たりしだいに何でもしなさい」

また三回目は、私が小学生の時です。これもよく話されていますが、今のちょうどホサナクラブの時間帯、土曜日の午後でしたが毎週子ども祈祷会というプログラムを持っていました。私も毎週出席していましたが、その時も聖霊の力を求めようという祈りがなされていました。教会全体で聖霊の力を求めましょうと言って祈りました。そのことが子ども祈祷会でも語られて、子どもの集会でも一時間でありましたが「とにかく祈れ」と言われて祈りました。普通、聖書のみことばを聞いたり、賛美したり、楽しいプログラムを持っていましたが、なんととにかく一時間祈れと言われて祈る時を持ちました。小学生でしたので苦痛で苦痛でたまりませんでした。「また今日も祈りか。」と、そんな思いですごしました。小学生ですので聖霊さまがどんな方か?聖霊が臨まれたらどんなことが起こると聖書に書いてあるかなどまったくわかりませんでした。わからないまま、言われるまま「聖霊の力を与えて下さい。」と祈りました。正直苦痛でしたが、一時間ひざまずいて祈りました。するとなんとその子どもの祈祷会に聖霊さまが臨んでくださいました。触れられ、不思議ですけど、私の口だけでなくすべての子ども達に臨まれ、訳の分からない異言の言葉がベラベラベラベラと、私たちの口から出て聖霊さまが祈って下さったような体験をしました。祈っている時に、なぜか分かりませんけど私は手を動かして、メッセージしている格好をして異言で祈っていました。また私の横を人を見ると、隣の家であるKさんの所のS君がいました。彼は正座して聖書を手に持つ格好をしながら、静かに異言で誰かかにあたかも教えているような姿で祈っていました。今思えば教師の賜物のような感じで、異言で語っていました。
また岡本先生は、「わっははわっはっは」と大笑いしていました。聖霊さまによろこびの霊がそそがれ、大笑いをしながら異言で祈っていました。本当に不思議です。ただ求めて子どもたちが、何にも分からない、聖霊の知識もないにも関わらず、求めた時に、突然聖霊が注がれ、祈る事が初めは苦痛でしたが、なんと聖霊が臨まれたら、祈りが楽しく、時間を忘れて祈った事を覚えています。
そして四回目は、一九九二年の聖霊の爆発的な油注ぎです。このことは滝元順牧師がよく語られ、「主が立ちあがられた日」という著書に詳しく書かれています。教会の書店にありますので是非購入してお読みいただきたいと思いますが、当時大きな問題を抱えていました。それは一九九三年に、高校野球や阪神タイガースで有名な阪神甲子園球場を借りて大きな伝道集会をしようとという事になりました。そのために様々な準備がなされ、とにかく祈らなくてはいけないということで、毎週県民の森で祈りました。
有名な話ですけども、一九九二年二月十三日滝元順先生がよくここでみことばを語ってくださいますが、愛知県民の森の芝生広場にある小さな小屋で祈祷会がなされていましたが、祈っている所から少し離れた場所から音が聞こえて来ました。滝元順牧師はそれは津波のような音だったと言います。すると皆が声を上げて祈り出しました。祈っている所に波が入ってきたように感じました。その瞬間、堅いコンクリートの上に、皆が瞬間的に倒されてしまい、聖霊の風か吹いてきて、小屋に入ってきて、みんなが倒されて、そして本当に素晴らしい主の栄光、主の聖霊の働きを見ることができました。その後教会に戻ってからも祈祷会が続けられて、素晴らしい聖霊の訪れた祈祷会を持つことが出ました。そしてみんな変えられました。先ほどの第一サムエル十章六節をもう一度読みますが、

『主の霊があなたの上に激しく下ると、あなたも彼らといっしょに預言して、あなたは新しい人に変えられます。』

とみことばがありますけど、まさにあの時、聖霊さまによって、皆新しく変えられました。あの時は本当に苦しい状況でした。この教会に聖霊が臨み、霊的戦いが始まった事で、一緒に集っていた兄姉が分裂して、この教会から去って行ってしまいました。約半数くらいになってしまった事を覚えています。そして一九九三年に甲子園球場を借りての大伝道集会を控えており、多くの準備がなされていました。人間的な考えからすれば、「もう無理だ。」「駄目だ。」と思うような時でしたけども、不思議でしたがあの時、聖霊の力をいただいたから、もう「駄目だ」という思いはありませんでした。とにかくいけいけで、「新しい人に変えられます。」というみことばの通り、神さまの中で素晴らしい体験をさせていただきました。

その後、「あの素晴らしい聖霊を体験したんだから、今度は教会員全員に聖霊が臨むように」ということで、七週間連続の祈祷会を土曜日、県民の森の芝生広場の小屋に行って子ども会、そして中高生、そして青年会、その後壮年会と時間をずらして各部会ごとに祈祷会をしようということになりました。
私は子ども会の担当でしたので、子どもたちと一緒に出かけて行きましたが、一回目から六回目というのは悲惨なものでした。一生懸命、あの手、この手で考えて祈りをさせましたが、「祈れ」と言ったって、「聖霊さまを求めて祈りましょう」と言っても、「神さま、聖霊さまをください。お願いします。」子どもたちは、それで終わりなんですよね。みことばで同じ言葉を何度も繰り返してはいけないというみことばはあるけど、「何でもいい。何度も繰り返してもいいで、思いつくままに祈って。」と言い、「はい、時間はかるよ、よーいはじめ!」なんて、時間を計ったことがありました。でも一番長い子で三十秒でした。そんな感じで六回が終わりました。
しかし、七回目に主が働いてくださって、この時も突然でした。私はいつも祈りのリードをしていましたが、自分の子がごそごそしているので、心を痛めながらいつも見ていました。私がはじめ気がついたのが、長男が泣きながらひざまずいたのです。コンクリートの床でしたが、ひざまずき泣き始めました。その時「また誰かと喧嘩したな。」と正直に思いました。でも違ったことがすぐにわかりました。不思議なことが起きました。子どもたち全員がみんな激しく泣き始めて、その地ベタに座り込んで、おいおい泣き始めたのです。三十秒しか祈れなかった子が、聖霊さまに触れられて、なんと、皆さん、どのくらい祈り続けたと思いますか?あの時なんと四十五分間、それも次のグループが小屋に来て祈祷会をする時間になってしまう事からストップしなければならずに、私が祈祷会をストップさせたのですが、何と四十五分間、皆が大声を出して真剣に祈りました。祈りがだいぶ小さくなった子に、私が按手して祈ってあげました。すると手を置いた途端、皆がうわーっと火が付いたように泣き叫んで再度祈り始めたのです。本当にビックリする体験でした。
祈祷会後、みんなに「何を泣いて祈っていたの?」と私は聞きました。そうしたらある子は、「自分の罪が示されて、このままだったら滅びてしまう。そんなことで、悲しくて悲しくて泣いてた。」と言うんですね。
ある子どもは、友達の顔が思い浮かんだら、その人が滅んでしまう!と思って泣けてしまって、「どうかその人が天国行けるように!」本気で真剣に祈り、また一人一人思い浮かべて祈ったと言うんですね。学校の先生まで祈ったというのです。
また、ある子は、日本のリバイバルために真剣に言ったとか、子どもたちには私の子ども時代と同じでしたが、聖霊さまの意味なんて、よくわからなかったと思います。どんな働きをするかなんてわからなかったと思うんですけど、不思議と聖霊さまが臨んで、その祈祷会に聖霊さまが素晴らしいわざを現してくださいました。

またその後に、教会全体で祈祷会をしようということで、礼拝が終わったお昼から、この会堂を会場として、皆で集まって祈祷会を行いました。ちょうど私は祈祷会の司会を担当させていただきました。講壇に立って、賛美を導いて、祈って、また賛美を導いてと、プログラムを進めていました。賛美の途中突然、一人の男の子が走り始めました。誰かに手を持たれて走り回るような状況でした。そうしたらそれが会衆全員同じようなことが起こり、会堂内をぐるぐるぐるぐる回って踊り始めたのです。聖霊さまが臨んでくださいました。私は誰かけがをすると危ないからと思い賛美をストップして、「皆で座って祈りましょう!」とうながしました。今でもハッキリ覚えています。ちょうどこの講壇のすぐ前の所に、豊川市から来られていたI兄というおじいさんがすわりました。もうすぐ八十に近いおじいさんでした。その人が、祈り始めたかと思ったら、泣いて床を叩きつつ、私の目の前で、「リバイバルをください!今までの罪を赦してください!」もう火が付いたように大声で祈り始めたのです。その姿は尋常ではない姿。まるで聖霊によって爆発したかのような姿でした。その祈祷会で大きな聖霊の油注ぎがまたそこでありました。小さな子どもさんからお年寄りまで、もれなく主が全員に触れてくださり、皆新しく変えられました。
その後先ほど言いましたように、教会のメンバーが少なくなり悲しい時でしたけれども、甲子園球場の集会の為に、みんなで頑張ろうということで、一丸となって準備をしました。一九九三年十一月三日間の阪神甲子園球場で、大きな伝道集会をしました。色々反対されるお方もおられましたが、何と三日間で延べ十二万四千人もの方々が集い、本当に素晴らしい集会を持つことができました。多くのイエス様を信じる方々。多くの献身者が与えられました。そして多くの方が癒しを体験する聖霊の働かれた大集会となりました。そして新城教会の兄姉が中心となって、会場係や献金係などなど様々な奉仕を喜んで行って下さり、みんなが聖霊によって生まれ変わり喜びをもって、奉仕してくださいました。本当に主に栄光をお返しした時を私は覚えています。

聖霊さまが臨まれると、私たちは新しい人に変えられます。もうとてつもない大きな壁がありましたが、ダメだと思うような時でしたが、それを乗り越えて、圧倒的な勝利を与えてくださいました。

あの子どもたちにも聖霊を与えてくださいましたけども、マタイ七章七節に、

『求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。』

とありますが、聖霊さまの事をあんまり理解できていなくても、聖霊さまを求めた時、確かに求めたら与えられ、見つけ出し、開かれます。そして新しい人に変えられます。

また第一コリント十二章三十一節に、

『あなたがたは、よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい。また私は、さらにまさる道を示してあげましょう。』

聖霊を頂いたものがよりすぐれた賜物を熱心に求める時、更にまさる賜物が与えられ、主がさらにまさる道を示してくれました。不思議ですけど、子ども達が霊的に目が開かれて、霊的戦いの中で、私たちには全く見えませんでしたが、、「あ!あそこに悪魔がいる!」「あ、やっつけた!」と霊的な目が開かれたのです。霊的戦いの中で、とても用いられたことがあります。そんなことあるか?と思うような不思議な賜物を主が与えてくださった体験をしました。

今日私たちはどうでしょう。聖霊に満たされていますか?当時から考えると、だいぶ月日が経ちましたので、落ち着いてしまい、聖霊の力を求めることもなくなってしまい、元に戻ってしまっていませんか?
「聖霊が臨んだら新しい人になる。力が与えられる!」そして「手当たりしだいに何でもしなさい。」と求めましょう。私たちは、毎日の祈りの中に、「聖霊さまを与えてください。私に力を与えてください。」と、是非付け加えて、熱心に求めて祈りましょう。
立ちはだかっている大きな壁に対して、聖霊の力はそれを乗り換えることができる。それを打ち砕くことができることを信じていただきたいと思います。

そんな中で私は、「手当たりしだい何でもしなさい」というみことばをいただいた時に、「手当たりしだいってどういうことかな?」と、思い主に祈りました。「手当たりしだいって、どういうふうにしたらいいんですか?」と祈った時に、主が私に語ってくださったことは、このエペソ五章十三節〜十四節です。