「70年が満ちた2021 回復と再建の年! 大逆転・大勝利パート4 ~はからずも〜」

2021年4月18日(日)新城教会主任牧師 滝元順

ルツ記2章3〜4節

『ルツは出かけて行って、刈る人たちのあとについて、畑で落ち穂を拾い集めたが、それは、はからずもエリメレクの一族に属するボアズの畑のうちであった。ちょうどその時、ボアズはベツレヘムからやって来て、刈る者たちに言った。「主があなたがたとともにおられますように。」彼らは、「主があなたを祝福されますように」と答えた。』

ハレルヤ!おはようございます。あまり大きな声を出してはいけないような社会的雰囲気があり、混乱の只中にありますが、主の守りを信じて心から感謝します。

豊田市の教会でクラスターが発生したりして、少し恐れがあるかもしれません。私たちも細心の感染対策と共に、主を信頼して前進しなければと考えています。新城教会は、会堂ができて四十一年になりますが、神さまはこの時が来るのをご存じで、大変通気の良い構造にしてくださいました。ですから風が通っている感じがすると思います。屋根のある野外のようです。季節が良ければ、空気をいっぱい取り込んで礼拝できる構造にしてくださいました。しかし細心の感染対策と共に、礼拝を進めたいと願っています。

皆さんのお祈りに支えられて、私も、家内も、守られていますことを心から感謝します。今週から家内は薬を変えるために、二週間くらい入院して治療が行われます。お祈りに加えていただけると感謝です。でもよく「奧さんも大変だけど、順先生も大変ですね。順先生のために祈らされます!」と言って、祈ってくださる方が本当に多くおられまして、心から、高い所からですけれど感謝を申し上げます。

私、基本的には大丈夫です。全然大丈夫なんです。

この戦いが始まったのは一年半ぐらい前ですが、診察室で「あなたの奥さんはあと三ヶ月、四ヶ月くらいの命です。」と聞かされました。青天の霹靂と言いますか、四面楚歌と言う感じでした。家内はどんな顔をして聞いているのかと思ってちらっと見たら、結構落ち着いて聞いていました。

しかしその瞬間に、私は「クリスチャンで良かったなぁ」と本当に感謝しました。なぜなら、四面楚歌ではあるのですが、天はまだ開いていると気づいているからです。私はその時に決意しました。今までも霊的戦いをしてきましたから、その総決算として、戦い、祈り切ってやろう!と決意したのです。何が何でも祈り切って、人生の中で、これ以上祈れないというくらい、真剣に戦い祈ってやろうと決断したからです。そして、結果は主に任せよう!と決断しました。余命宣告を受けた診察室のただ中で、そのように決断しました。

その日から、本当に激しい戦いが始まりました。しかし戦いの中で、昨年は神の素晴らしい奇跡を、幾度となく見させていただきました。三ヶ月、四ヶ月と言われていた命が、すでに一年半以上です。これだけでも十分奇跡だと思うのですが、現在、少し押し戻されているところがあるようですが、一歩も引かないで戦い祈り続けるならば、主は良いお方ですから、必ず、良い結果を現してくださると、私は堅く信じています。

同時に、教会の祈りは本当に大切です。ペテロが牢に捕らえられていた時、教会の祈りによってことは動きました。ですから続けて祈りの手を緩めず、お祈りいただきたいと願っています。

 

しかし一方、私たちの神さまは、真剣に祈らなければ動いてくださらないお方ではない、という側面も知る必要があります。普段の生活のただ中で、「はからずも」業を行ってくださる愛の神さまだからです。

今日は「大逆転・大勝利パート四」、副題として「はからずも」とつけさせていただきました。「はからずも」を調べますと、「予想もしない様。思いがけない様。」という意味です。用法としては「事態ははからずも好転した。」とか、「はからずも大金が手に入った。」・・・こんな経験はないですけれど。予想しなかった転回という面について学びたいと願っています。

 

神は、ご自分の暦を通して、粛々と業を行われる方でもあります。ある先生がこんな言葉を語っていました。

 

“旧約聖書の記述と聖書暦、そしてイエスさまがなされたことを突き合わせることにより、イエスさまが十字架にかかられたタイミングも旧約聖書と関連していることがわかる。”

 

この言葉は、先週、四元雅也先生が語っていた言葉です。私たちが信じるイエスさまは、どこかの新興宗教の教祖のように、突然現れた存在ではないと語られました。何千年もの歴史の中で、旧約聖書の中で、その影が現れ、時いたりて、イエスさまは地上に生まれてくだったのです。イエスさまの十字架も、旧約聖書の暦に韻を踏みながら実行されたのです。

ちょっと復習になるのですが、イエスさまが十字架につけられたのは、ユダヤ暦第一の月、ニサンの月の十四日でした。それは折しも過ぎ越しの祭で、第一の月十四日は傷のない子羊を屠る日にあたります。その日に合わせて、子羊イエスさまは十字架につけられました。

 

第一の月の十四日は、過越のいけにえを【主】に献げなければならない。民数記二十八章十六節

 

死からよみがえられたのは、ニサンの月の十六日でした。それは折しも「初穂の祭り」の日でした。この季節は大麦の収穫期にさしかかる季節です。畑の中に初穂が出たならば、それに続いて多くの穂が現れることを農夫は知っています。それで最初の穂を摘んできて、まずは神さまにささげて、その後、収穫に入ったのです。イエスさまは初穂の祭りに合わせて、よみがえらました。そこにどんな意味があったのかと言うと、イエスさまはよみがえりの初穂であり、それに続く者たちがいる事を表しています。このように旧約聖書の暦を見る時に、イエスさまを見出すことができるわけです。

 

聖書暦を意識すると、月ごとにテーマがあることに気づかされます。ニサンの月は新年で、そこには多くのテーマがあることを語らせて頂きました。現在、聖書暦ではどの月にあたるのでしょうか。聖書暦は太陰暦です。新月から始まって、新月で終わります。

聖書暦によりますと、今は第二の月「イヤルの月」と呼ばれる月に差し掛かっています。今日はイヤルの月の六日にあたります。

このイヤルの月は、どういう季節かと言いますと、今お話ししましたように、大麦の収穫期にあたる月です。イエスさまのよみがえりの日は初穂の祭りでしたから、まだ収穫には至っていませんでした。初穂が出た季節でした。そこから約一ヶ月経った今は、大麦の収穫期にあたるわけです。

さて聖書で、大麦の収穫期にどのようなストーリーが記録されているのかを知る時、神がイヤルの月に、どのようなみ業を計画されているのかを読み取ることができます。

 

大麦の収穫期に起こった出来事は、ルツ記に記録されています。先ほどルツ記から読んでいただいたのですが、そこには大麦の収穫期のストーリーが描かれていました。もう一度読んでみます。

ルツ記二章三〜四節、

 

『ルツは出かけて行って、刈る人たちのあとについて、畑で落ち穂を拾い集めたが、それは、はからずもエリメレクの一族に属するボアズの畑のうちであった。ちょうどその時、ボアズはベツレヘムからやって来て、刈る者たちに言った。「主があなたがたとともにおられますように。」彼らは、「主があなたを祝福されますように」と答えた。』

 

ボアズとは、ルツが落ち穂を拾いに行った畑のオーナーです。

実はイスラエルには一つの習慣がありました。それは収穫の時に、畑を隅から隅まで刈ってはいけないというものでした。畑を丸く刈るという事なんですね。誰かの掃除の方法かもしれませんけれど。隅っこは、貧しい人たちとか、在留異国人に与えるという律法であったわけです。ボアズはそのことを実行していたので、ルツはその畑に入って、落ち葉を拾っていたのです。

「落ち穂拾い」という絵画があります。ミレーが描いたもので、大変有名です。その絵は、ルツ記を題材に描かれたものです。大変有名ですからご存知かと思います。ルツ記は、大麦の収穫期、イヤルの月に、何が起こったのかを中心的にレポートしているわけです。

そこで述べられているのは、「はからずも」というテーマです。はからずものタイミングで、オーナーのボアズが畑に入ってきたのです。それは生活のただ中に現わされる神の時を示しています。

 

普段の生活のただ中に、はからずも大逆転が起こる月、それが「イヤルの月」なのです。今月がチャンスです。聖書の暦を知りながら生活するとき、神の奇跡を期待出来ます。

 

このストーリーを家に帰ってから読んでいただきたいと思います。エリメレク一家は、イスラエルに飢饉があって、モアブの地に移り住んだところから物語は始まります。聖書は神話ではなくて、今も残っている地理的空間で起こったストーリーであり、歴史的事実です。

これはグーグルで舞台となった場所を表しているのですが、ベツレヘムからエリメレクの一家は、「モアブの地」に移住したわけです。そして、ルツ記は、モアブの女ルツが主人公ですが、モアブという地が、歴史的に古代イスラエルとどのような関わりがあったのかを事前に知りますと、神さまは本当に愛の深いお方であり、私たちに深い哀れみを施してくださるお方である事が分かります。それも、生活のただ中に、苦しみや悲しみのただ中で、着々とご自分の計画を、将来と希望に向けて前進させてくださっている事が分かるわけです。

 

モアブという地について聖書から詳しく学んでいただくと良いと思うのですが、簡単にまとめますと、モアブはイスラエルの宿敵でした。ルツ記は、イスラエルをさばきつかさ、士師たちが治めていた時期の記録です。士師の時代は三百年間に渡りました。ルツ記はその後期にあたりますから、ルツから見て三百年ぐらい前、出エジプトをしたヘブル民族が、モアブの人たちとトラブルになり、宿敵となりました。神はモアブに対して、大変厳しいことばを語っています。申命記二十三章三節、

 

『アモン人とモアブ人は主の集会に加わってはならない。その十代目の子孫さえ、決して、主の集会に、入ることはできない。 』

 

ひどいですね。十代経っても罪人とされてしまうのですから。なぜならば、イスラエルがエジプトから出てきた道中に、アモン人とかモアブ人が、イスラエルに対してパンとか水を与えなかったという理由と、もう一つは、バラムという霊能者がいて、彼がイスラエルを結果的に呪ったからです。それでイスラエルは大変な目に遭いました。そんな背景もあって、モアブは神から呪われた場所となり、モアブ人の女たちは、イスラエルから差別され厳しい目を向けられていました。ルツとはそんな歴史を背負った存在でした。

また、モアブは異教の神々が支配する地でした。どんな異教の神々が支配していたのかと言いますと、聖書は「忌むべきケモシュ、忌むべきモレク」と述べています。これらの神々、すなわち悪霊どもは、子どもの命を要求する神々でした。「祈りを聞いて欲しかったら、おまえの子どもの命をよこせ!」という神々でした。

アブラハムがイサクをささげたストーリーがありますが、そこには文化的な背景があります。すでにアブラハムの時代も、ケモシュやモレクの影響下にありました。アブラハムは神の声を聞いたとき、すぐにイサクをモリヤ山に連れて行ってささげています。どうしてかと言うと、その地域にそのような悪しき神々が大きな影響を与えていたためでした。しかし神は、その悪しき習慣を止めさせて、子羊を用意して、イサクを助けたのです。そこに十字架のあがないの影が隠されているわけです。

ケモシュやモレク礼拝はソロモン王の時代も盛んであったと聖書は記録しています。

なにしろモアブ地域は、イスラエルに悪影響ばかりを与える地として、毛嫌いされていたわけです。

 

しかし、はからずも歴史的には、ある意味、最も暗闇の深い場所から、神は偉大な業を行われたというのが、ルツ記のストーリーです。

このような前提を踏まえて、今から皆さんに一つの動画をお見せいたします。それは「バイブル・プロジェクト」という団体が制作したアニメです。ルツ記の他にも、いろいろ分かりやすくアニメ化しています。ルツ記の全容が分かります。熱心に主を求め、戦わないと祈りに応えて下さらない神ではなく、生活のただ中に栄光を現してくださる神の愛を理解できます。私たちの主は、子どもの命をささげないと祈りを聞かないような神では決してありません。最も忌み嫌われていた領域からも回復を与え、祝福をもたらしてくださる神なのです。